鍵とダンス
「ママ……私、やっぱり秋が嫌い」
ママは驚いていた。ママはママでも母ではない。働いているお店のママ。店長だし、なんなら、一児の父。
母は、秋にいなくなった。
「なによ、急に。なに泣いてんのよ」
店の裏口で、秋風に吹かれて、美味しそうに煙草をふかしていたママがびっくりしている。
それもそうだ。だって私だってなんで泣いているのか分からないんだから。
樹々は色づき、空は高く、夕暮れに浮かぶ雲は輪郭を持っていて、風は冷たくて、そして私は泣いている。
「これから開店ってのに泣いてんじゃないわよ」
ママはさっきの驚きをもう忘れたかのように、二本目の煙草に火をつけた。
「うん……ごめんね、ママ」
それでも、ママは私の傍から動こうとはしなかった。
母とは、違った。
秋は私の、鍵をかけた記憶をこじ開ける。全てをさらけ出されるのが嫌で、肩を抱えてしゃがみこむ。
こんなことになったのは、二年前から。
母が、突然居なくなってから。
ただの日常を生きていた。通っていたバレエ教室の練習が終わって、友達と少し「最近寒いよね」なんて笑いながら帰ってきていた。あの娘の名前はなんだっただろうか。私はそんな大事なことにすら鍵をかけてしまった。
マンションの前。銀杏の並木道。地面に敷かれた美しい黄色の絨毯。輝いているように見えるその道を歩くことが、私にとっての秋だった。
まるで祝福してくれているような、そんな道。歩くだけで胸が高鳴り、足取りは軽くなり、気を抜けばステップを踏んでしまうような、そんな道。
夕暮れに光るその絨毯は、光を反射していて、だから私はバレエ帰りの、この時期が好きだったはず。好きだったはずなのに。
家に帰ると、誰もいなかった。でもそれは別に特別なことではない。母は仕事をしていたし、私に父はいなかったし、そして兄弟姉妹もいなかった。
いわゆる鍵っ子という生き物で、その現代社会の結晶のような生き物は、何も気にせずに母の帰りを待っていた。
そして、その日、母は帰ってこなかった。
次の日は私の誕生日だったのに、母はいなくなった。
秋に私を産んだ母は、秋に私の目の前から去ったのだ。いつもなら二十時近くになれば帰ってくるはずだった。遅れるにしても連絡をするような母だった。帰ってこない日は、リビングのテーブルの上に晩ご飯が置いてあった。
それらがすべて、何もなくて、そして不安に思った私は、日付を超えたあたりに外に出た。
もしかしたら近くで倒れているのかもしれない。酒乱という一面を持っていた母だったし、決して若いともいえない年齢だったから、不安になったのだ。
そして時計の針がてっぺんにようやくたどり着くと、私は玄関から家の前に出ることを決めた。
脳裏で薄々感じていたのだろう。
母はいなくなったのだ、と。
それすらも信じたくなくて、そんな思考に頭が支配されることを恐れて、私は震える足を一歩前に踏み出し玄関のドアを開けた。
そして、家の前に出ると、夕暮れに輝いていた一面の黄色い絨毯が、月明かりに染まり知らない一面を見せていた。
妖しく光る、舞台のようだった。
息を呑んだことを、今でも覚えている。
喉が鳴る感覚を、耳が、脳が、心が覚えている。
私は妖しく光る黄色い舞台を直視していられなくなって、知らない景色に背を向けて、家に戻り、そして玄関ドアの鍵を内側から閉め、記憶に蓋をして、外側から鍵をかけた。
そして、私は秋が嫌いになった。
しゃがみこみ、泣きながら肩を抱く私の傍で、壁に寄っかかるようにして三本目の煙草に火をつけたママは口を開いた。
「そんなに嫌なら東南アジアにでも行っちまいなよ。よく来る……なんつったっけ、あの不動産屋のオヤジが言ってたよ?『ママさん、今は東南アジアだよ。ずっとあったかくていいぞ~、こんなクソ寒い北国なんかからは考えられない!』とかなんとかさぁ。鼻息荒くして。あれ絶対若い女買いに行ってるだけだけど。ていうかアンタ、あのオヤジのお気に入りじゃん。連れてってもらいなよ」
それだけは嫌だった。いやらしい目つきで私を、頭のてっぺんから足先まで眺めるように見るおじさんに買われるなんて想像しただけで嫌だった。
「嫌だ」と言おうとしたけれど、うまく声が出ない。そのことをきっかけに、私は自分が思っていたよりも強い力で自分の肩を抱いていることが分かった。
無言の抵抗として、首を横に振る。
「そんなフルフルしたってさぁ、秋が嫌いなんだろう? てっきり秋生まれって言ってたから好きなもんだと思ってたけど、もしかして母ちゃん出て行ったのこんくらいな季節な訳? お、その反応は当たりだね。なんでもお見通しなんだよ。いいじゃねぇか、親がいなくなってそんな反応できるだけ、アンタは幸せモンだよ」
いつもこうして店の裏側でママの煙草に付き合っていたけれど、普段はこんな喋る人ではなかった。寡黙で、背中で従業員を引っ張るような、そんなママだった。
だから、こんなにも喋るママが珍しくて、私は顔をあげる。
「なんだい、その目。真っ赤に腫らしてさぁ、アンタはウチの商品なんだから、そういうのやめてくんない?」
「ママは……」
「これ以上は喋んないよ。不幸自慢なんてクソ喰らえ。どっちがマシかなんて誰にもわかんないんだから。ってそうなると親の話で匂わせたのはアタシだわね。いやはや歳は取りたくないねぇ」
それだけ言って、ママは店の中に戻っていった。
数歩進んで、まだしゃがみこんでいる私に、ママは言った。
「アタシのガキにゃ、アタシみたいな目にあってほしくないだけさ」
ママはそれだけ言うと、今度はそのまま店の奥まで行ってしまった。
独り残された私は、何を考えればいいのか分からなかった。母がいなくなった私。おそらく親とうまくいかなかったママ。
お店には、色々な女の子がいた。親に隠れて働いている子、親に勘当されて働いている子、親を憎んでいるけど離れられなくて早く結婚して自分を縛る苗字から逃げたがっている子、私みたいに親がそもそもいない子。
どんな女の子にも、ママは厳しい。同情なんてものは一切なく、自分と近しいような境遇の子がいたとしても皆平等に扱った。
「アンタたちが働きたいって言ったから働かせてやってんだよ」
これがママの口癖だった。そしてそのあとにこう続けるのだ。
「情けない働き方してみなよ。一回は許してやる。二回目は無いよ」と。
去っていった女の子たちもたくさんいた。
それでも、いま働いてる女の子たちはママの言葉に生かされている。
トラウマをこじ開けられるような経験をしても、自分の知らないびっくり箱の蓋が開いてパニックになっても、それでも、私たちはママについていくのだろう。
そんなことを考えていたら、夕暮れから夜へと空模様は変化していた。
やたらと輪郭を持った雲が頭の遥か上を流れている。風は冷たくて、そして遠く見える並木道は今日も黄色い葉を落としている。
美しく輝く絨毯は、これから妖しく光るのだ。
私の心をこじ開けようとする秋の空気を無視するように私は立ち上がり、無数に蠢く暗い気持ちの一つ一つを振り払う。
私が見ている景色と、あなたの見ている景色は違う。
たかがひとつき。十一月さえ終われば、私は生き返る。
生き返った私は、おそらくあの妖しく光る舞台で踊るのだろう。誰に見せることもなく、トラウマを踏みつけるようにステップを踏む。
右に左に、踏みつける。
脚はちゃんと動くだろうか。
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