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「手紙」 青山勇樹
「手紙」という散文詩を紹介します。
宮殿からアテティカの谷へと降りてゆくあの階段で、あなたを見かけようとは思いもしないことでした。暑い日盛り、あなたの着ていたガウンと足許の大理石との白が、たがいに響きあって、澄んだ階音を鳴らしていたことを記憶しております。それともあれは、ただの衣擦れだったのでしょうか。かつて宮中一のエラート奏者とうたわれたあなたのまわりには、いつも音の粒子がまといついている、そんな思いがあったからなのかもしれません。それにしてもあの長い階段を、あなたほどの秀でた音楽家でさえもが降りてゆくのかと、なぜ、という驚きと、やはり、という哀しみとを禁じ得ませんでした。遠くかすかな人のざわめき。ゆらめく蜃気楼。風にゆれる橄欖の枝。そして、まばゆい、テラ。そうした一切のものが時間の断面で切りとられて不意に立ちどまり、そのなかでただあなたひとり、奇妙に浮かびあがって見えたのです。そういえば、どこに置き去りにしたのでしょう。いとおしみ、磨きあげ、決してその身から離しはしなかったあの楽器を、あなたはどこに置いてきたのでしょうか。宮殿での晩餐会に招かれたときはもとより、アゴラの雑沓のなかにいても、旅をするときも、裏庭をひとり逍遥するときでさえ、あなたの肩からはいつもあの楽器が提げられていました。ときおり風に鳴り、光にゆらめいて、その不思議な音色については誰もが神のつぶやきと噂したものです。それほどあなた自身であったはずのものが、あのときのあなたの肩からは消えておりました。荷物もなく、素足のまま、ただ真新しいガウンの白だけに身をつつんで。それまでにも、幾人の人たちを、この階段に見送ったことでしょう。誰もがかかえきれないほどの身仕度をして、谷へとつづく長い階段を、それでももどかしげに走り降りてゆくのでした。海を渡ってきた吟遊詩人もいれば、宮殿の壁画を仕上げたばかりの絵描きもおりました。その人たちに比べると、あなたはなんて身軽ないでたちだったことでしょう。そして、なんて確かな足の運びだったことでしょう。アテティカの谷の深みには、いったいなにがあるのでしょうか。美しい人たちはみな、どうしてこんなにも降りてゆこうとするのでしょうか。そこからは、いままでに誰ひとりとして、帰ってきたためしがありませんのに。あれから千年。あなたはいま、あの長い階段のどのあたりを降りているのでしょう。あいかわらず透きとおった眼差しと、崩れることのない足取りとで。そして、おそらく、あともう千年。そのときあなたは果てしない瑠璃色の空へ、アテティカの谷から翔びたつことにちがいありません。あなただけは、きっともどってくるにちがいありません。銀のほのおと燃えあがり、祈る翼のかたちをして。
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