見出し画像

この世界のどこかで、あなたが誰かに優しく笑っていますように


この世界のどこかで、あなたが誰かに優しく笑っていますように:忘れられない初恋の話



あの頃の私はただの中学生三年生で、毎日はただ勝手に過ぎていくし、周りの世界が少しずつ変わっていくのを見守ることしかできなかった。

でも年齢に関係なく、ひとつだけ心の中で気づいていたことがあった。
それはあの時からずっと、あの人が頭の中にいるということ。他の何を忘れても、彼の名前は胸の中にずっと焼き付いているということ。
彼は、私の兄の友達だった。

彼がどれだけ私の目を引いていたかは、今になって振り返ってみてようやく分かる。今思うといわゆる不良で、大きな体に無骨な姿勢、どこか鋭い目つき。
でもその強さだけでなく、どこか悲しげな瞳が心を深く引き寄せた。

彼の姿を見るたびに、心の中で何かが動いて胸の奥が痛んだ。
あんなに強そうな男がたまに見せる、何も言わずに黙っている時間の中で見せる無防備さに、どうしようもなく心を奪われていたのだった。

他の誰よりも強く、かっこよく、堂々としている。
それなのに彼の中には不安定な何かが見え隠れしていて、それに気づかないふりをすることができなかった。 
それが彼を好きでい続ける理由のひとつだったのだろうと思う。

会ってから別れるまでずっと、私は彼を放っておけなかった。



彼に出会った日は、家のリビングでテレビを見ていた。特別見たいものがあったわけではなく、適当な再放送のドラマを見ていたと思う。
ドラマも終盤に差し掛かった頃、玄関から笑い声が聞こえた。耳を済ませてみたら、どうやら兄が帰ってきたようだった。

そのままリビングに一直線に向かって来ると、「友達とゲームするからテレビ使う」とだけ言われ、「はーい」と適当に返事を返す。
こういう時、すぐに了承しなければ喧嘩になるのは言うまでもない。

二歳年上の兄とは当時仲が良いわけでも悪いわけでもなく、家の中で顔を合わせたら会話をする程度で、そんな兄がこの日に突然連れてきたのが彼だった。

「お邪魔しまーす。お、妹、なんか観てたん?ごめんな」

彼はそう言いながらリビングに入ってくると、兄と楽しそうに話しながらゲームのコントローラーを手に取った。

普段は気にも留めなかったその光景が、なぜかその時だけは妙に心に残った。
兄が友達と一緒にゲームをすること自体は珍しいことではないけれど、この日ばかりは、自分がこの場にいることを妙に意識した。

まったく彼の視界に入っていないのに、まるで二人きりの空間が広がるように羞恥心を持って、兄と彼が盛り上がりながら勝敗に一喜一憂している様子を、ただぼんやりと眺めていた。

少し経って、ふと、彼が「一緒にやるか?」と声をかけてきた。一瞬戸惑って言葉に詰まる。
まさか、今日会ったばかりの友達の妹をゲームに誘ってくるなんて思わなかったからだ。

でもその問いかけには優しさと、少しの意地悪さが混じっているような気がして、無理に笑顔を作って、「やってみる」と答えた。

彼の隣に座ってコントローラーを受け取る。初めは緊張していたけれど、ゲームを進めていくうちに自然に会話ができるようになり、あの不器用な距離感が少しずつ和らいでいった。
彼の笑顔を目の前で見るたびに、胸が少しだけ高鳴った。気持ちがぐんぐん引き寄せられていくのを感じる。

あの時の私が一番気に入ったのは、彼が勝った時に見せる、あのちょっと得意気な笑顔だった。



それから一週間しても彼は家に来なくて、しつこく兄に「次はいつ来るの?」「仲良いの?」「彼女いるの?」なんて聞いては、心底鬱陶しがられる日々を過ごしていた。

そんな時、塾の帰り道。街灯に照らされた暗い道を一人で歩いていると、ふと足音が近づいてくるのを感じた。

様々な事態を想定して、心臓がバクバクしながら振り返ると、なんとそこには彼がいた。
固まったままの私に歩いて近づいて来ると、「帰り?」と声をかけてくる。ぎこちなく頷くと、彼は「俺もバイト帰り。一緒に帰るか」と、まるで当たり前のように言った。

一度会っただけの友達の妹を送ってくれるなんて、と、たぶん少し驚いた表情をしていたと思う。そんな私の顔を見た彼は何を思ったのか、「面倒くさいけど、送ってやるわ」と少し照れくさそうに言った。

その言葉に、心の中で何かが弾けたような気がした。

歩きながらほとんど会話はなかった。
当たり前だけれど、お互いにお互いのことを何も知らない。気を遣った彼が時々軽い冗談を言って、それに反応して笑うしかできなかった。

自分の足音と彼の足音が一緒に響く、その静かな道を歩くことがどうしてこんなにも心地よく感じるのかが、その時は分からなかった。

ただ彼と一緒にいるだけで何もかもが少し特別に思えて、この瞬間をできるだけ覚えておこうと、必死にその景色を脳裏に焼き付けようとしていた。
いつか彼との関係が変わっても、この時間だけは消えて欲しくないと漠然と思っていた。



別日の夕食時、母が料理をしている台所の近くで、またただぼんやりとテレビを見ていた。
すると兄が帰ってきて、同時に「友達も晩御飯食べてっていい?」と少し気まずそうに聞いてきた。そして兄の後ろにいる人物を見たその瞬間、驚きと同時に心の中で大絶叫した。

会いたかった彼が苦笑いをして立っていた。

普段夕食に誰かを呼ぶことはあまりなかったけれど、彼がこの時間帯に来たことが嬉しかった。
何も考えずに、「食べて行きなよ」と、口にしていた。料理をしている母には、少しだけ怒られたのも良い思い出だ。

しばらくしてみんなでテーブルを囲み、出来上がった料理を並べた。その中に、昨日母に習いながら作った煮物を出してみる。
あまり料理に自信がなくて少し緊張していたけれど、彼が一口食べた後に「これ、すごい美味い」と言った。
思わず私は目を見開いて驚いていると、続けて「料理上手いなぁ」と言うのを聞いて、恥ずかしさと同時に少しだけ誇らしい気持ちになった。

母が教えてくれた通りに作ったその煮物をこんなにも喜んでくれるなんて思いもしなかった。嬉しさがこみ上げたけれど、その場では自分が作ったとは言い出せなかった。

彼が美味しいと言ってくれたことが、何より心を温かく包んでくれた。その時頭の中で思ったことはただ一つ、彼にもっと自分のことを知ってほしいということだった。

食後にキッチンで片付けをしていると、兄が二人分のジュースを片手に寄ってきた。二階の兄の部屋にいる彼の分と、自分の分だろう。

「アイツのこと好きなんだろ」

そんな不意を突かれて言葉が詰まる。すぐに否定する声が出なかった。
ただ兄はニヤニヤと意地悪く笑って、すぐに背を向けた。

「まあいいんじゃね、アイツ良い奴だし」

それだけ言って、階段を上がって行った。
でもその言葉の軽さの中に妙な温かさがあって、私は少しだけ安心したのだった。

そして夜中に彼が帰るとき、兄が席を外したその一瞬、私は自分の家の玄関先で自分の気持ちを告白してしまった。無理だと分かっていたけれど、気持ちが昂り過ぎて言わずにはいられなかった。

今思うと計画性が無さすぎるけれど、心臓は飛び出るほどに早く鼓動を打っていた。

「好きです」

一言そう言うと、彼は少し驚いた顔をした後に困ったように笑って、「友達の妹とは付き合えんわ」と言った。

その言葉が心に鋭く突き刺さったのは今でも覚えている。
この気持ちはどこか遠くのものだったという現実を、その時にやっと痛いほどに感じた。
彼の目の前では、私はただの友達に妹に過ぎなかった。

それからしばらく彼を見ないようにしていたけれど、その想いは変わらないどころか、むしろ時間が経つほど好きだと思う気持ちが強くなった気がする。
無理だと分かっていても、その時の心の中では彼がすべてだった。
そして心の中でだけ、彼との時間を求めていた。



高校の進学先を決めるとき、最初に頭に浮かんだのはもちろん彼のことだった。
彼が通っている高校は、自分の元の志望校よりも遥かに荒れていて未知の世界に感じられた。他に理由はないのに、どうしてもその高校に行きたいという思いが強くなってしまう。

そんな私を見た兄が珍しく心配して、「別に、無理してアイツに合わせなくてもいいんじゃね」と何度も言っていたけれど、頑固にも心はもう決まっていた。
あの高校に進学すれば、もしかしたらもっと近付くことが出来るのかもしれない。そんな期待が胸を高鳴らせていた。
他の進学先のことを考える余裕もなく、ただその高校への道を選ぶことにした。

無事合格して高校に入学した時、彼はすでに三年生だったけれど、その存在感は他の誰よりも強かった。
入学式ではすぐに彼を見つけたけれど、周りにはいかにも悪そうな友達がいて、周囲は少しギラギラした空気が漂っていた。
だけど彼自身はその中で浮いているわけでもなく、逆にその中にいても不思議と落ち着いているように見えた。

式が終わった後に下駄箱でウロウロしていると、目的の人物が歩いて来るのが見えた。

彼は私の顔を見つけると少し驚いたように見えたけれど、すぐに「あれ、高校、ここにしたの?」と笑った。振られてからなんとなく避けてしまっていたけれど、その変わらない態度にほっと胸を撫で下ろした。
「うん、そう」と答えると、彼は少し考えるような顔をしてからこう言った。「一年間だけだけど、よろしく」その一言が嬉しくてたまらなかった。
彼が周りの空気に合わせることなく優しい一面を見せてくれることが何よりもありがたく、何より私を安心させてくれた。

そして心の中で何度も自分を励まし、勇気を出して、ずっと言いたかったことを言った。

「連絡先、教えてくれませんか?」

彼は少し驚いたように見えたけれど、すぐに軽く笑って、「何かあったら言えよ」と携帯を取り出して番号を教えてくれた。
そのときの声のトーンが優しくて、心はますます温かくなった。ただの連絡先交換以上のもの広がっていったような気がして、その後何度もその言葉を思い返した。

実際に連絡をしたのは数えるほどしかなかったけれど、彼の番号はお守りのように、心をずっと救ってくれた。



そして後日、奇妙な形で彼と再び接することになった。
この時あたりから、兄の友達という距離感が少しずつ変わり始めた気がする。

彼はアルバイト先を探しているという私に、兄伝ではあるけれど、「知り合いがいるほうが安心だろ」と言って自分のアルバイト先に誘ってくれた。
きっと彼なりに『振った友達の妹』に気にかけてくれていたのだろう。

嬉しさをすべて閉じ込めて、「そうだね」とだけ兄に言った。そしてすぐ面接の予約をして、その数日後には合格をもらい、彼と一緒に働き始めた。

「俺が誘ったし、何かあると言われるから送ってくわ」

そしてアルバイトに入った初日から、シフトが被っていたら必ず彼は何も言わず家まで送ってくれた。合わせてくれている歩幅は少しだけ緩やかで、でもほんの少し前を歩くのが彼らしかった。

この道が彼の帰り道じゃないことは分かっていた。
でもそのことについて彼は何も言わない。ただ当たり前のように隣を歩いていた。

夜風が二人の間をすり抜けて、言えなかった言葉をどこか遠くに運んでいった。
しばらく無言で歩いた後、彼がふっと小さく言った。

「バイト慣れた?」

何気ないその言葉に胸の奥が熱くなる。彼の横顔は街灯の光で淡く縁取られていて、その顔をこっそりと脳裏に焼き付けた。
きっとこんな些細な瞬間を、いくつになってもずっと覚えているんだろうと思った。

「お陰様で、楽しいです」

そう言うと彼は「別に俺のお陰じゃないでしょ」とだけ返して、前を向いたまま歩き続けた。
その背中越しの優しさが、どんな言葉よりも記憶に深く残った。

結論として、これ以上に特別なことは何もなかった。
けれど彼と業務上で会話を交わすことが多くなっていって、毎日のように顔を合わせることができる。
それだけで心は満たされた。

無理に距離を取らずにただのアルバイト仲間として話をしていたけれど、心の中では全然落ち着かなくて、毎日彼に何度も何度も恋をしていた。

彼はここでのアルバイトを数ヶ月後には辞めてしまったけれど、恋心は募るばかりだった。彼が居なくなってからも気持ちは何一つ変わらなかった。

彼がいたのにもういない場所に寂しさを覚えながらも、未練がましくその場所に通い続け、結果として高校生活三年間ずっと同じ場所でアルバイトをしたのだから笑ってしまう。

彼のことを思い出すたびに、あの日々が鮮明に蘇る。
無理だと知りながらも、何度も心の中で彼の名前を呼んでいた。



彼の高校卒業が近づくにつれて、私はその日が来ることを避けるようにしていた。
兄がリビングでゲームのコントローラーを弄りながらふと呟いた言葉が、やけに胸に刺さっていたからだ。

「アイツんち、あんまりいい感じじゃないんだよな」

何気ない口調だったけど、その裏にあるものを感じ取ってしまった。詳しくは聞けなかった。
ただ兄は画面から目を離さず、淡々と続けた。

「だからってアイツはそういう顔しねえけどさ、こっちに全部置いて行って、あっちで全部やり直すって言ってたわ」

そう言い終えた後、兄は再びゲームに集中するふりをしていた。
でも頭の中では、彼の笑顔とその言葉が何度も重なって離れなかった。

彼が上京することが決まっているという話は、噂で何度も耳にしていたけれど、その度に心の中でその事実を遠ざけていた。
現実を受け入れたくなかった。
彼がもうすぐここを離れてしまうということがどんなに重大なことであるのか、心の奥底では分かっていたけれど、どうしてもその思いを口に出すことができなかった。

彼にとってここでのすべての出来事が過去のものになり、新しい自分を見つけるためにその場所を去る。
それがどこか切なくて、でも彼にとってはそれが必要なことだと思う反面、どうしても納得できない自分がいた。

何もかも置いてこの街を離れると決めたのならばと、どうしても伝えたいことがあった。初めて告白をしてから一年以上経っていて、今も叶うことはないとは分かっていたけれど、もう一度だけ告白して未練を断ち切りたかった。
思い切ってバレンタインの夜、彼にもう一度気持ちを伝える決心をした。

何度も何度も書き直した、当日の昼間に送ったメールの一言。
「今日って何してますか?夜何もなければ、少しだけ会えませんか?」

返事はすぐに来た。
「遅くなるけど、バイトの後なら時間作れるよ!」

お願いしますとだけ返信をして、その後は部屋で震えていた。
言葉にすれば何もかもが終わってしまうような気がして、胸が締め付けられるように痛かった。それでも言わなければならないと感じていた。

24時が近付く頃、彼から「家の前着いた」と連絡が来て、なるべく大人っぽく見える装いで玄関を出た。
バイト終わりだと言う彼は少しだけ疲れているように見えたけれど、いつものように笑ってくれた。

心の中で何度も自分を奮い立たせながら、言った。

「好きです。振られてからもずっと、好きでした」

その言葉を口にした瞬間、彼は一瞬だけ黙った。私の目を見つめ、何かを考えるような顔をしてから、やがて彼はふっと笑って、「友達の妹だしやっぱ無理だよ」と言った。

その言葉に打ちのめされながらも、泣かないようにと必死で笑顔を作った。
負け惜しみに「そんなの関係ないと思うけどな」と言うと、彼は少し困ったような、でもどこか温かい笑顔を浮かべていた。

それが都合良くも、まるで本当の気持ちを隠すために必死で作った笑顔のように見えて、また泣いた。
こうして私の初恋は見事までに破れたのだった。



卒業式の日、周りのクラスメイトたちは誰々先輩の第二ボタンが欲しいだの、思い出を作りたいだのと言って盛り上がっていたけれど、私はその話をほとんど耳に入れることができなかった。

心ただひたすらに彼が消える瞬間が迫っていることを感じ、胸が苦しくてたまらなかった。
あっという間に式が終わり、先輩達が記念写真を撮っている騒めきの中で立ち尽くす。周りの喧騒がまるで遠くの出来事のように感じられた。

それなのに、視界の端に彼が映る。
別に探していたわけではないのにどうしても視界に入って来るのは、彼がそう言う存在だからだろう。

彼の制服はすでにボタンがすべて外されていて、気にする様子もなくどこか気だるそうな雰囲気を漂わせていた。
その姿を見て、胸が一瞬で締め付けられるような感覚に陥る。
ああ、もう本当に、これが最後なんだと、心の中で確認するかのように彼を目に焼き付けた。

その時、彼がこちらに気づいて、笑いながら近寄ってきた。

「なんつう顔してんだよ、泣いてんの?」
「ええ、泣いてないですよ」

笑顔を作って必死で目を逸らしたけれど、彼がポケットから何かを取り出したその瞬間、私はその手のひらにあるものに釘付けになった。

言葉にはしなかったけれど、本当は欲しかった彼の第二ボタンだった。

第二ボタンと直接言われたわけではないけれど、なぜか直感でそう思った。
彼の心臓の、いちばん近くにいたボタン。

ぎゅっと握った手を差し出されて、開いた右手を震えながら差し出すと、その上に生温いボタンが落とされた。その間に言葉はなかった。

ただ淡々と「元気でな」とだけ言われて、その一言が胸をさらに苦しくさせた。

彼が笑っているのに、悲しい気持ちは止まらなかった。
彼が泣いていないことに、逆に胸を締め付けられる思いがした。



三月十八日、彼がこの街から消えるその日、兄に頼んで最寄りの駅に見送りに行くことにした。

兄は私が彼を見送ることをあまり快く思っていなかったようで最初は少し渋っていたけれど、結局は一緒に駅まで行くことになった。
私がずっと彼を追い掛けていたことも、振られたことも、今日ここに思い出として置いていかれることも、全部知っていたのだと思う。

駅に着いたとき、心臓は激しく鼓動していた。
彼が一時間後にはもうここにはいないのだと思うと、胸が苦しくて息が詰まった。

ホームへ行くと彼はすでにそこにいて、その姿を見つけた瞬間、心の何かが崩れ落ちるような感覚がした。
言葉が出ない私の代わりに、兄はいつものように彼へと声を掛けてくれた。

「おーっす」
「え、なんでいんの!?」
「この前最後っつってたから、見送り来た」

彼は私たちが見送りに来たことに驚いていたけれど、やっぱりすぐに笑顔を作って、あの時と同じように涙一つ見せることはなかった。
それでも私の目からは止めどなく涙が流れて、嗚咽しながらもひとつの封筒を手渡した。

その時「今までありがとうございました」と言った私の言葉に、彼は卒業式の時と同じく「元気でな」と軽く笑いながら答えて封筒を受け取った。

彼とはこれが最後の会話だった。

涙のせいで目の前はずっとぼやけているし、彼が新幹線に乗り込むその瞬間までただ嗚咽を漏らすことしかできなくて、車内に消えていくのを見届けた後もその場に立ち尽くしていた。

そしてあっさりと新幹線が見えなくなった後、無意識のうちに、彼に渡した封筒を握りしめていた自分の手をじっと見つめる。

ホームは冷たい風が吹き抜けていた。
隣に立つ兄は、ポケットに手を突っ込んだまま少しだけ視線を遠くに向けていたけれど、不意にぽつりと言った。

「アイツもお前のこと、好きだったと思うわ」

その声はいつもより少しだけ優しくて、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
でも、私じゃだめだった。彼がここに留まる理由を、作ってあげられなかったのだから。
そんな気持ちから顔を上げることができず、ただ静かに頷いた。

涙は止まらなかったけれど、不思議と少しだけ、前を向けるような気がした。

彼を好きになってからの二年。
少ない思い出のすべてが、本当に過去となってしまった。



あの時渡した封筒に、手紙は入っていない。
あれにはただ、私が彼に紹介してもらったアルバイト先で仕事をして得た五万円を餞別として入れた。

高校生の自分からすれば五万円は大金だったけれど、あれは彼に対する未練と、心の中でどうしても断ち切ることができなかったいろんな思いを少しでも形にして渡したかった。

お金では決して代わりにはならないものだと分かっていても渡さずにはいられなくて、どうか彼の本当の願いが、この場所から解放されたことで叶いますようにと願った。

彼が上京してから、再び会ったことは今日まで一度もない。
それどころか地元に帰ってきたという話を耳にすることすらなくて、時間が経つにつれて、彼が本当にどこか遠くへ行ってしまったのだという現実が少しずつ心を占めていった。

彼がいなくなる前、あんなに必死に告白したり最後の瞬間を見送ったりしたことが、今となってはとても遠い出来事のように思えてならない。

それでもあの金色に鈍く輝く第二ボタンが、まるで私の心を縛るように残り続けていた。
あれが最後の思い出だったのだと思うと同時に、初恋は叶わないと言う言葉をしみじみと心の奥底に閉じ込めたのだった。



今、彼はどこで何をして、何を思い、誰と過ごしているのだろう。
すべて捨てても手に入れたかったものは、ちゃんと手に入ったのだろうか。

あれから携帯に残された彼の電話番号を、もう何十回も何百回も目にしたのに、いつも指を止めてしまう。
その番号を眺めているだけで、胸の奥に静かな痛みが広がっていく。

何度も何度もかけようと思った。
ただの「元気?」でもいいから声を聞きたかった。けれど指は、いつもその先を進まない。
きっと彼は望んでいないし、あんな風に覚悟を持って置いていった場所なんて、二度と思い出さないほうがいいに決まっている。

そうして何もできないままで静かに、けれど確かに、忘れられない存在としてここにまだ彼の面影が残っている。

私が知っているあなたは少し不器用で、優しさを隠すのが下手な人だった。
あの頃交わした言葉も笑い合った時間も、ずっと色褪せないまま残っている。

あなたがどこで何をしていても良いから、どうか幸せでいてほしい。

もう会うことはないかもしれないけれどそれでいい。
あなたがこの世界のどこかで誰かと笑えているなら十分だと心から思えるほど、まっすぐに恋をしていた。

どうか、彼の歩む先に温かな光が降り注ぎますように。
どうか、幸せな毎日を過ごしていますように。


いいなと思ったら応援しよう!