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シン・俳句レッスン178




現代俳句

先に提出句を考えねば。そのヒントなるような評論があれば良いのだけど。

「新春に寄せて 新しい俳句到来の予感」 高野ムツオ

  雪よ振る手がさよならをながびかせ  田村転々
  レジ打ちの最後はパンをのせて春   堀内晴斗
  塗りたての白線に落つ蝉の羽根    西山文乃
  虎が死ぬ炎熱の藻に絡まつて     林山任昂
  ひとつぶのヴィールスとして游ぎをり 本村早紀
  をとことかをんなとか雪重いとか   島崎寛永
  月涼し肺の広くて解剖図       佐藤知春

どこが新しいのか?「雪よ」という呼びかけ。雪に呼びかけているのか。「雪にサヨナラと」。
「レジ打ち」が今風。山崎パン祭りかよ。
白線は安全地帯か?蟬の羽根だけ落ちているのか。風に吹かれてきたのか?
虎が死ぬほどの猛暑か?
まだコロナ禍なのか(またか)。「游ぎをり」は遊戯みたいということか?
「をとことか」の句は好きかも。読みにくいが定型に合わせるとなるほどと思う。
「月涼し」は解剖図を見ながら思ったのか?医学生なんだろうか?病気の肺だと「涼し」にはならないだろうな。
新しい言葉の発見と日常性からの脱却が目標か。

会員数の減少と会費値上げ。これさ、年寄に負担が多いのはなんとかしてもらいたい。逆差別のような気がする。無職にこの年会費はキツイのだよ。

『「造型俳句論」と「生きもの感覚(アニミズム)」』のひみつ 小松敦

これはいい評論かもしれない。やっぱ叙情ということか?それが群れである人間の営みということなのか?『金子兜太の俳句入門』を読もうと思ったが読んでいた。

そうか芭蕉の道はひとごころで一茶の道がふたごころとあった。そこかな弱点は?一茶はあまり読んだことなかった。

金子兜太の俳人としての俳句思想がある。芭蕉の美意識よりも一茶の生活感の俳句作法の違い。芭蕉は『奥の細道』で古典の歌枕の中世の幻想を追いかけて一人旅をして心に訴えた俳句を作った。「心」は「ひとりごころ」。それが芭蕉の美意識であった。それに対して一茶は「情」という「こころ」、これを「ふたごころ」と詠み(相手の情に訴えるとか)、哲学でも堂々巡りする心の哲学もあれば(モノローグの哲学)、ソクラテスのように対話型(ダイアローグの哲学)もあるというような、一茶は自然へのダイアローグ(対話)の俳句だというような。

かふの読書メーター

結局、投句は提出したのだが字が上手く書けずに苦労する。そういうところから始めなければダメだな。字を書くことなんて、めったにないんで。自分の名前さえ上手く書けない。俳号を間違ってしまったり。

ネットだと字を書かなくてすむから、それがいけないと思うのだが。字を書けることほど偉大なのだと感じてしまう。

海外俳句の鑑賞 木村聡雄

アメリカの元会長の句でジャズの俳句を興味深く読んだ。やっぱ季語なんてないのだ。

drums thump ドラムの音
pulsing of the heartsong 心の歌を刻む
the opening sky 広大な空
Lenard Moore レナード・ムーア

ローチ&ブラウンの「チェロキー」とか連想する。

a magnolia leaf    木蓮の葉
falls between us   われらの間に落ちる
tenor sax      テナーサックス

マグノリアはビリー・ホリデイが髪に挿していた花であり、そうするとこのテナーはレスター・ヤングだと思われる。つまり二人のジャズが我らの間に響いているのだ。


NHK俳句

題「寒椿(侘助)」
選者:木暮陶句郎、ゲスト:篠井英介(俳優)、題「寒椿・侘助」。寒椿と侘助の違いとは?椿の魅力に惹かれ続けた日本人。お茶席の椿を詠んだ篠井英介さんの俳句を披露!

冬に咲く椿だが、侘助というのは開ききらない椿だという。めんどくせーとと思ってしまう。まあ侘助というのは見ないからな。寒椿は先日初詣に行ったときに見た(実際には梅を見に行ったのだが)。


この椿は他と違うな。八重咲きなのか?普通の椿でいいのだが。NHK俳句の選句は一年で6万ぐらい、月でも6千通あるという。そんなに一人で選句しているのか?実際はスタッフがある程度仕分けしているのかと思っていた。いつも似たような句だったから。まず選ばれることはないからな。もう三年ぐらい投稿しているが。十年やって一人前とかいわれるが、十年やっても同じだろなとは思う。今日は現代俳句の4句も決めなければならない。春夏秋冬で無季はなし。まともに行くか。と言っても新しく句作が出来ないので過去句から選ばざる得ないが。椿の句はあったかな?多分ない。

偉そうな寒椿ほど虫が付く 宿仮

まだ椿に虫は付かないと思うがお茶系の木はチャドクガの毛虫が付くから。こんな句しか出来ないのは兼題だからだ。<兼題>

白洲正子の蘊蓄を語る選者とゲスト。白洲正子は嫌いだった。


<兼題>堀田季何さん「囀(さえずり)」、西山睦さん「卒業」
~1月20日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>木暮陶句郎さん「田楽」、高野ムツオさん「スリッパ」
~2月3日(月) 午後1時 締め切り~

芭蕉の風景

小澤實『芭蕉の風景上』より「第三章 笈の小文」から。

冬の日や馬上に氷る影法師 芭蕉

芭蕉が伊賀の実家に向かう途中の弟子の杜国に会うためにほそ道に入るが海から吹き上げてくる風が冷たかったという。杜国は罪人なので、そのことを含んでいたのかもしれない。

冬の日や造成地にも長い影 宿仮

造成地を見つめる芭蕉ではなく我か。冬日の傾き書けた西日に伸びる影。

鷹一つ見付けて嬉しいらご崎 芭蕉

伊勢への伊良湖は鷹の渡りで有名で西行にも歌があるという。

巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな 西行

「巣鷹」は鷹匠が飼いならした鷹で「山帰り」は山で捉えれた鷹だという。対句表現だというのだが、その意図はよくわからない。自分に当てはめているのか?西行が平泉に東大寺再建の勧進に赴く途中の歌だという。芭蕉が鷹を見付けて嬉しいと詠んだのだが、鷹が渡る季節ではないというので、これは想像だという。この鷹というのが杜国ということなのだそうだ。

たかちゃんとよばれし日にも遠くなり 宿仮

昔はたかちゃんと呼ばれたのだがもう誰もそう呼んでくれないという寂しい句だった。

麦はえて 能隠家よきかくれが や畑村 芭蕉

「隠家」は杜国が潜んでいた家みたいだ。罪人だったから隠れるように住んでいたのだろう。しかし、これも芭蕉の勘違いで畑村という場所ではなく美保村だったという。芭蕉も勘違いをするのだ。杜国は芭蕉の愛弟子であったようで罪人になっても訪ねたりしていたのだ。杜国も隠遁者であったということらしい。

この発句に同行した越人と杜国が付句を詠んでいる。

冬さかりに椿咲くなり 越人
昼の空のみかむ犬のねかへりて 野仁(杜国)

越人は杜国が住んでいた場所の椿を誉めている。杜国は蚤がたかる犬が昼寝していると詠んでいた。

馬上に吠える尨犬芭蕉かな 宿仮

尨犬が目覚めて馬上の芭蕉に吠えたという句。

とぎなほす鏡も清し雪の花 芭蕉

熱田在住の弟子桐葉と熱田神社に行った時に詠んだ句。芭蕉には弟子が多い。丁度、熱田神社は建替えで、新たに神殿が神々しく神鏡も磨き直されたという意味だという。「雪の花」は雪が降っていたのだろうか?「清雪門」という門があってそこを詠んだのではないかという。せっかく雪が降っていたと思ったのに。鏡は象徴で、磨き直すことが神社の建替えを言っているのだと。芭蕉は鏡も見てないという。全然、写生はしてないのだな。

初鏡映す美人は夢の中 宿仮

白雪姫だっけ、魔女が鏡を覗くと自分より美人が映っているという。

いざさらば雪見にころぶ所迄 芭蕉

書店を営む門弟を尋ねた時の句。やっぱ雪は降ったのだ。雪が降ったので門弟のところに立ち寄ったということらしい。門弟の書店は「書林風月」という洒落た名前だったという。芭蕉弟子が出版した『冬の日』があったかも知れないという。

冬の日や光のすじに古書重ね 宿仮

本屋に冬の光がさしているが埃の中に古本が積まれているという句。

歩行かち ならば杖つき坂を落馬哉 芭蕉

芭蕉の季語がない句。名所を歌枕として読む場合にはそれ以上言葉を重ねない為に季語は入らなくていいという。「杖つき坂」は「古事記」で日本武尊の姿を呼んだという名所。実際に芭蕉が落馬したわけではないが、そう詠んで日本武尊に重ねたという。

七転び芭蕉も転びて起きるかな 宿仮

七転び芭蕉起きという俳句の目覚めの句かな。

旧里や臍の緒になく としの暮 芭蕉

実家に帰って臍の緒を見つけたという句だった。母の思い出なのか(母の遺品整理ということだった)?臍の緒は人生の原点というが、持ってなかった。見たことはあったのだが火事で無くしてしまったのだろうか?だから薄情の子になったのかもしれない。

家も無く臍の緒燃えて泣く子かな 宿仮

ちょっとこれは事実っぽい。

春立ててまだ九日の野山哉 芭蕉

初春の歌で実家に帰ってからまだ九日目だが、野山は冬景色という。この春を正月とするか立春にするかと議論があるという。どっちでもいいじゃないかと思うが、それほど実家に長居したということだろう。ここでは素直に一月九日としている。あ音が多いので春の日ざしを感じるという。

春立てて二十日過ぎても正月か 宿仮

まだ立春も来ないものな。

丈六にかげろふ高し石の上 芭蕉

「丈六」というのは一尺六丈(約四・八五メートル)の仏像だという。それは釈尊の身長だという。巨人族か?

丈六の仁王立ちにて 友達だち を踏み 宿仮

邪鬼は友達。


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