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ただいま推しの詩人

『パレスチナ詩集』ダルウィーシュ,マフムード【著】/四方田 犬彦【訳】 (ちくま文庫 )

ガザの壁にはマフムードの詩「壁に描く」のプレートが貼られているYouTubeがあがっていて、まさに今のガザの詩なのだと思った。日本では落書きは消されてそういう煩雑さはなくなったのかもしれないが落書きがあった頃はそういう物語を欲していたのだと思う。それが単純な歌詞であっても。詩が物語として力を持っているならば、それらの言葉は語り継がれていくだろう。そんな推しの日に読んだパレスチナの詩。

パレスチナに生まれ 入獄と亡命を生きた大詩人
惨事と野蛮に抗して 詩は可能か


【内容紹介】
「世界の果てに辿り着いたとき、われらはどこへ行けばよいのか。/最後の空が終わったとき、鳥はどこで飛べばよいのか。」詩を喪失したとき、敗北した国はさらに敗北する。ホメロスに始まる西洋文学がつねに勝者の側から語られてきたとするならば、今こそ敗者の声を詩に結実させなければならない。本書はパレスチナの亡命詩人の、生涯を懸けた絶唱である。
【目次】
道のなかにさらなる道/この大地にあって/また野蛮人がやって来る/死んでいるわたしが好き/山裾の上、海よりも高く、彼らは眠った/あそこに夜が/アデンに行った/敵が遠ざかると/アナット変幻/イムルウ・ル・カイスの、言葉によらない論争/異邦人に馬を /壁に描く 

アナット変幻

詩とは月にかけられた梯子。
望みなき恋人たちの鏡のように
アナットは詩を庭にかける。
和解できずにいる二人の女として
魂の砂漠に向かう………

マフムード・ダルウィーシュ「アナット変幻」四方田犬彦訳

「アナット」は月の女神で善神バアル(キリスト教では蝿の王というような邪神)の妹。バアルが死んだときに冥府から救い出したのが妹のアナットだという。「望みなき恋人たち」というのは兄妹愛なのか。鏡のようにだから似たもの同士なんだろう。「和解できずにいる二人の女」の一人はアナットで、もう一人はアスタルト(豊穣の女神)。アナットとアスタルトが同一視されていた時代もあるという。アナット=アテナ アスタルト=アプロディーテーという感じのようだ。

ぼくはきみたち二人とも欲しい
愛であり、戦争であるアナット!
地獄に墜ちてもいいよ。
きみが好きだ。

アナットはみずから殺し、
そしてみずからの内に、みずからのため
距離を作り出す。
遥かなる彼女の像の前を通り、
被造物たちがメソポタミアとシリアの地を進むため。
地という地が
ラピスタズリの笏と聖処女の指輪に従う。

マフムード・ダルウィーシュ「アナット変幻」四方田犬彦訳

アナットは犠牲神のようだ。被造物というのは都市化だろうか?地という地が「ラピスタズリの笏と聖処女の指輪」に従うのは、新しい女王のようだ(エリザベスとか?)。

戻ってきておくれ、
真理と暗示の国を
原初のカナーンの大地を、
きみの胸と股の 開かれた大地を
もたらしてくれ。奇跡がジュリコに戻ってきますように、

マフムード・ダルウィーシュ「アナット変幻」四方田犬彦訳

地下に留まったままであるアナットを呼び戻す詩なのだ。そして砂漠であるカナーンの大地を再び豊穣の地へ戻して欲しいのだろう。ジュリコは「ジュリコの戦い」という歌があったがあれがキリスト側の歌か?多分ジュリコで敗れたのだろう。


昨日(11/4)が推しの日とかで、最近の詩の推しはずばり、マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナ詩集』なのだった。中東では詩が今でも流行っていてそれが読まれているということだがダルウィーシュ「壁に描く」はYouTubeに上がっていて、ちょっと感動するのである。80p.を超える長編詩だが、その中に過去の文学の詩や聖書の言葉が織り込まれているという。それはT.S.エリオットがやったモダニズムの表現だが、その詩が現代に蘇る場所がパレスチナの壁なのである。T.S.エリオットが書いた「あらゆる詩は碑文である」というのを体現している分離壁の詩なのである。

これがあなとの名前、と彼女はいい
螺旋の回廊に消えた………

天国が手の届くところに見える。白鳩の翼がわたしを
今ひとつの子供時代へと引き上げてくれる。夢をみていたなんて、
夢にも知らなかった──すべてが現実だ。
わかっていた、わが身を脇に置いて、飛ぶのだと。
究極の天球にあって、わたしはなるべきものとなる。

マフムード・ダルウィーシュ「壁に描く」四方田犬彦訳

この言葉は『出エジプト記』からの引用があり、ユダヤ教における神の自己定義のひとつだと解説にあった。それを換骨奪胎する手法はまさにパロディなのだが、それは現実にパレスチナで起きていることだった。

前に死んだことがあるかのようだ。そのヴィジョンには見覚えがある。
自分が未知へと進もうとしているとわかる。
まだどこかで生きているような気がする。
欲しいものはわかる。

わたしはある日、なりたいものとなる。
わたしはある日、いかなる剣も書物も
荒野へと携えていけぬ思考となる。
草の刀に断ち割られる山に降る雨のような
勝利も、力も逃げまどう正義もない!

わたしはある日、なりたいものとなる。

わたしはある日 鳥となって、自分を無から存在を引っ掴む。

マフムード・ダルウィーシュ「壁に描く」四方田犬彦訳

ダルウィーシュが詩で語るのは現実世界なのだが(この詩は心臓発作で入院した詩人と看護婦の会話を元に書かれたものだという)、そこに西欧哲学や宗教が織り込まれていく。そして隠喩を駆使して過去に見てきたものを回想していく。ここでは哲学者ハイデッガーと詩人のルネ・シャールの対話を間近で目撃したことも描かれていく。その中に監獄生活の拷問なども描かれているという。

わたしは生きたい……….船の背でやるべき仕事がある。
われらの飢えと船酔いから鳥を救うことではなく、
洪水に立ち会うという仕事だ。次は何がくるのか?
この古き土地に生き残った者は何をすればいいのか?
もう一度 物語を繰り返すか?
始まりとは 終わりとは 何なのか?
死者のもとから真実を告げに戻ってきた者はいなかった。

マフムード・ダルウィーシュ「壁に描く」四方田犬彦訳

詩人の抗議の声はイエス・キリストの叫びと重なる。しかし、彼の神はどこにいるのか?

キリストが湖上を歩いたように、わたしは自分のヴィジョンのなかを歩く。
しかしわたしは十字架から降りてきた。高みを恐れ復活を口にしないから。
自分の心臓の音をはっきりと聴きとろうと、ただ自分の調子を変えてみた。
英雄には鷲がつきもの、わたしには鳩の首飾り。
屋根のむこうに捨てられた星、港に出て終わる路地。
この海はわたしのものだ。この新鮮な大気も。
この舗道も、わたしの歩みろ種の散らばりもわたしのもの。
古いバス停もわたしのもの。
わが亡霊も その主も。

マフムード・ダルウィーシュ「壁に描く」四方田犬彦訳

このあとアラビア語で彼の名前が刻まれるのだが、それぞれの文字(五文字)に意味がある。そしてそれは友人の名前でもあるのだ(同名の名前の友人か)。かれは墓に収まっていた。

そしてわたしの名前は、棺に刻まれた名前を間違ったとしても、やはりわたしのもの。
わたしといえば、旅立ちの理由でいっぱいだ。
わたしはわたしのものではない。
わたしはわたしのものではない。
わたしはわたしのものではない。

ガザのジェノサイド前に書かれた詩なのだが。


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