弁の弁解を紫式部は聞くわけがない
『源氏物語 49 総角』(翻訳)与謝野晶子(Kindle版)
「総角」という題は、古今集の紀貫之の和歌。
その歌の本歌取りとして薫が大君に宛てて詠んだ和歌である。
紀貫之の和歌から一つの物語世界を紡ぐのは、現代文学でも大江健三郎がブレイクあるいはイェーツの詩の断片から物語を開示するのに似ている。『古今集』から『源氏物語』へというのは、「英詩」から「四国の森の物語」へと開かれていく物語と同じ構造なのである。
さらに語り手の問題、この帖で延々と話す薫とそれを聞いて姫に取り次ぐ役割の女房(老いた弁)の関係性は重要である。何故なら、薫が亡き八の宮の嘆願によって娘たちの後見人になるという話と八の宮の娘に宛てた遺書は違うからである。近代小説は信頼ならない語り手というのが出てくるが、このシーンがまさにそれだろう。薫に託すと言った八の宮の言葉は本当にあったのだろうか?大宮が強く薫を拒むのは八の宮の遺言ではなかったのか?
さらに手引以上に弁と薫の関係性である。普通だったら大君の侍女だから大君への忠誠をすべきなのに逆なのは、それ以上の関係を薫と築いていたからだろう。紫式部の弁の描き方もこれ以上ない悪女に描いているようでもある。
この糸は複雑な模様を作り出す。大君も妹に譲ると言うのは利己心が働かなかったとは言えないと思うのだ。少なくともそれで自身の身を守る事ができて、父の遺言も守られた。
さらに匂宮の思惑は薫が手引する。この男女関係が本人らの意志に関係なく、手下の者によって左右される最大の被害者は中の君に思えるが、罪悪感は大君に残った。
それは弁に裏切られ、薫に裏切られ、宿命に裏切られた悲劇であった。大君は中の君の幸せを勝手に思い、勝手に裏切られたように思う。すべての取次(仲介者)はそれぞれの思惑があったのにも関わらず、罰だけは大君に与えられたのは姉妹の間なのにも関わらず裏切りがあったからだろう。
それぞれの思惑(心理)が微妙な絡み合う中で次第に解けない悲劇を生みだすのだ。『源氏物語』は近代小説以上の心理小説でもあった。
大君には正しい導き手(侍女)がいなかった。