ブギウギが繋ぐロシアーアメリカー日本ー中国
『上海ブギウギ1945―服部良一の冒険』上田賢一
大友良英の「ジャズトゥナイト」で服部良一特集を聞いてすかっり取り憑かれてしまった。服部良一が戦前にヒットさせた笠置シズ子との「ラッパと娘」の斬新さ。
服部良一が日本のポップス界に影響を与えた戦後の復興期もブギウギのリズムだったが、次第に古賀政男らの哀愁メロディに追いやられてしまった。演歌時代の到来。
しかし服部良一の和製ジャズは現在もどこかでうけつがれていたのだ。例えば大友良英が紹介するように。それよりも日本でヒット作を作らなくなった時期に香港映画のサウンド・トラックなどを手掛けていたという。また服部良一の作曲した「蘇州夜曲」は中国系を中心とするアジア圏で大ヒットしたという。そんな服部良一が上海に入ったのは、戦時中で工作員としてだった。
服部良一のポップスはスイングジャズでもジョージ・ガーシュインから影響を受けたシンフォニック・ジャズでオーケストラで演奏される。それはロシアから亡命してきた作曲家から音楽理論を学んだから。その当時の上海は国際都市で各国の租界があり、様々な亡命者(ロシアやユダヤ人)が入り乱れ西欧音楽やジャズ、あるいは元々あった中国音楽、さらに服部良一が持っている日本のメロディ。そうしたもののちゃんぽんが和製ポップスとして形作られた。それがもっとも華やかさを放ったのは戦後の焼け跡にブギウギというスタイルで日本中を明るくしたのだ。特に笠置シズ子『東京ブギウギ』は日本中にブギウギブームを巻き起こしたという。
その服部良一のブギウギが誕生するきっかけとなった上海という当時の国際都市の猥雑さと多民族が入り乱れてた世界だった。上海の激動の歴史に翻弄された人で有名なのは李香蘭(山口淑子)がいるが、彼女の物語もこの本に書かれていた。
上海時代は、日本の工作員として中国人を日本の文化にするために送り込まれたのだが、逆に服部良一はジャズを演奏出来るのでのめり込んでいく。そんな敗戦間際の時期でも音楽シーンは場違いの雰囲気で、当時中国で大人気だった李香蘭のコンサートを上海で開いたのだ。それは大人気だったがその最中に敗戦のニュース。日本の降伏には「花のサンフランシスコ」を楽団員が演奏することになってそれを客席に伝えるとみんなが踊り出したという。服部良一は死ぬ覚悟でいたのだが、上海で知り合った人たちに助けられる。
そんな中に李香蘭のヒット曲「夜来香」の作曲家黎錦光は服部良一を尊敬しており、彼の中国のヒット曲「蘇州夜曲」に影響を受け、服部良一も「夜来香」を編曲して李香蘭のコンサートを成功させたのだった。そうした彼らの助けもあって混乱の中国から日本に帰ることができたわけである。
黎錦光の話も面白く、毛沢東が高校の先生だったときに落第していた黎錦光を厳しく指導したのが毛先生で、厳しい勉強の合間に一緒に海水浴をしたりと人情味のある先生だったが、国共対立する解放後の上海では苦労を強いられる。弟はアメリカに亡命して、ミュージカルをヒットさせたりしていた。彼は文化大革命も経験しており、楽器も取り上げられて紅衛兵らに吊し上げを受けたりして、悲惨な体験をする。
そこときに上海の映画会社の人たちが香港に逃れて、後に日本で売れなくなった服部良一をミュージカル映画の作曲者として招くのだ。中国という国家の中にありながらも人によって繋がれていく文化というものの力をあらためて知る。