シベリアの永久凍土は海だった
郷原宏『岸辺のない海 石原吉郎ノート』
石原吉郎のノート(日記)だと思ったら石原吉郎についてのノートだった。そこから浮かび上がる石原吉郎は、詩や日記だけを読んだだけではわからなことなど丁寧に調査している。
その背景にあるのは石原吉郎のシベリア体験だった。ほとんど彼の詩を理解するのは、スターリン時代のシベリア収容所について理解する必要があるようだ。
戦前にキリスト教へ入信したこと。それはもともとそういう信仰心的な性格があり、当時の文学青年のように、キェルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキーなどを読んでいた青年であった。その青春時代から詩作を始めたが、詩風としては立原道造のような思想よりは表現方法、音楽的なリズム風な表現を求めた詩を創作していた。帰国後最初に求めたのがだったのだ。
ただ根本に於いて立原道造の水々しい明るさではなく、鬱々とした影を追い求める傾向だったようだ。それは時代的なものもあるだろう。1930年代の不安定な時代(芥川的なぼんやりとした不安)。ドストエフスキーの解釈で、厭世主義的な実存主義のユダヤ人のロシアの思想家で、河上徹太郎が翻訳し「シェストフ的不安」の語を流行させた。
そこからドストエフスキーから解釈されるキリスト教の絶対的な宿命論としての教義を実人生に重ねていった。注目すべきは、カール・バルトの『ロマ書』解釈。ドイツでのナチスによるキリスト教会支配が横行していくなかで、それに反抗するキリスト教思想、それは彼を直接導いたカール・バルトの弟子でありユダヤ人牧師であったのエゴン・ヘッセルによって洗礼を受ける。
その頃の日本は皇国史観に基づく宗教の改変が行われていたのでキリスト教会も権力に寄り添っていく。そのことが権威よりも個人の信仰心を優先する石原吉郎と権威的な老神父(エゴン・ヘッセルとは別のドイツ教会の神父)と対立し、ユダ呼ばわりされたことが後のシベリア帰還兵差別(アカよばわり)と繋がっていくのだ。ちなみにエゴン・ヘッセルはドイツで兵役拒否してアメリカに亡命するのだ。
石原は宿命(運命)論に取りつかれていたから日本の運命も自身の運命も厭世的に受け入れる。だから死を求める軍国主義はなかばロマン主義的に受け入れていたようだ。その対立が兵役拒否をして来日し、アメリカに亡命したエゴン・ヘッセルとの確執でもあった。もっとも石原のキリスト教の信仰は最初から極めて個人的な「単独者の祈り」で、組織に属さないものでもあった。その思想はドストエフスキーのシベリア体験とも後々つながっていくことになる。
だから帰国後も共産主義に染まることはけっしてなかった。シベリア帰還兵が監獄生活の中で共産党思想に染まっていくのは否定できない事実としてあったのだ。
石原吉郎は、運命的に戦争を受け入れた。それは日本と運命共同体としての道だ。ロシア語の能力がかわれてハルピンにて関東軍の特務部隊に派遣される。ハルピンはロシアが中国を統治した時代に鉄道が引かれ、日露戦争、満州事変と日本の支配が続き伊藤博文が暗殺されたのもハルピンだった。
石原吉郎は敗戦間近のソ連の満州侵攻の「宣戦布告」を翻訳している。日本は連合国のポツダム宣言を受理せずソ連は連合国に参加したことになり、満州は混乱極まる。ソ連の対日本参戦は、戦争終結の表向きの理由があるのだが、実質はスターリン社会主義の計画経済への労働力確保としての理由があった。
そして、関東軍が民間人を守れず逃避したとされることで、事実石原吉郎らは、関東軍の証拠隠滅に大忙しだったとされる。そこで行われる殺戮や略奪の数々を目撃し、萩原朔太郎の『月に吠える』に影響を受けた「事実」は帰国後その悲惨さを描いた詩である。
石原吉郎は特務機関で白系ロシア人の部下を使っていたが、彼に密告されて逮捕されるのだ。ただそうした白系ロシア人もスターリン下のソ連での生き残りに必死だった。後にそうした者たちも処刑されていくのだった。
石原吉郎は最初は捕虜としてシベリア送りになるが(そのことで日本が早期に引き戻してくれないことに絶望していた)。すでにそこで捕虜になった2割の日本人が亡くなっている。
キリスト教はそうした石原に安堵をもたらさず後に親鸞に惹かれていくことになる。そして『歎異抄』を暗記するように進められた僧侶?の影響を受けたが、その僧侶がパンの盗みで捕まる。収容所では誰もがそうした犯罪者になりえた。後に石原はその人を理解するようになるが、当時はますます人間不信に陥るのだ。
石原はもともと酒癖も悪く奇声上げたりする人だったようだ。そして、所構わず議論をふっかけ、ますます孤立化して行ったのかもしれない。
収容所で強制労働させられる日本人は、その軍隊組織のままに班を組まされる。そこでは元共産党員の下で組織化されるようになる。収容所ないでの革命運動は、理想よりも、そこには陰湿なイジメがある。関東軍の上官だったものは一番下っ端にさせられるのだ。彼らは憎しみを倍加させていく。帰国後そうした共産党員がリンチされたニュースなどもあるほどに。
さらに石原は戦争犯罪人として、ナチスや戦争協力者のソ連の人々と共に過酷な強制労働の刑罰を受けた。それは、アウシュヴィッツの悲惨さが逆転するような収容所からの移動列車の中での悲惨さ。ソ連人の恨みは彼らに向けられた。実質死刑は廃止になるがさらに悲惨なリンチや銃殺(逃亡者としての)が横行する。石原もその罠にかかり逃亡者として処刑されそうになる。
糞も味噌も一緒という非人間的仕打ちによって人間の尊厳を剥奪されていく。その世界が当たり前となっていくのだ。(ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』の世界)
鉄道の枕木一つに死人一人と言われる悲惨さであったとされる。「デメトリアーデは死んだか」は森林伐採現場で木の下敷きになったルーマニア人の死を詩にしたものだが、そこで彼は死者の名前が数多くの犯罪人の死とされ埋もれていく無名性の存在を喚起させるのだ。
それは終生石原吉郎の友人とされた、鹿野武一との再開、そこで鹿野はもし石原が生きて日本に帰ったなら、その出会った日を死んだ者としてつたえてくれと言ったという。後のノートに書かれる尋問は鹿野武一から聞いたものだった
石原が最初にシベリア送りになったときは捕虜としての「望郷」という念だったものが戦争犯罪人としての「怨郷」という言葉に変わっていく。
そういった事実があって、ソ連のシベリア鉄道が延長されるていくのだ。もう「さらばシベリア鉄道」は歌えないな。違った世界をイメージしてしまう。
スターリンの死によって大赦されやっと日本に帰ってくるのだが石原はスターリン時代の収容所に入れられた事実が物語る。彼の望郷は海への憧れであったものが、空虚の海として変質していくのだ(スタニスワフ・レム『ソラリス』の海のように)。
その世界が「サンチョ・パンサの帰郷」の世界であり、例えば『ガリバー旅行記』での帰郷したガリバーであったのだ。