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消尽つくした詩

『現代詩手帖2024年2月号』

【特集】lux poeticaの詩人たち
◎エッセイ
芦川和樹 犬、犬状の芦川さんと 花束
張文經 詩集『そらまでのすべての名前』をめぐって
◎インタビュー
小川芙由 言葉で印象を捉える
大島静流 相剋を見つめて
◎書評
田中さとみ バグであり、夢であり、ゼリーでもある、蠢くアニマル絵巻 芦川和樹『犬、犬状のヨーグルトか机』
菊井崇史 詩のまなざしに息づく距離 小川芙由『色えらび』
篠田翔平 「きみ」が壊れる場所で 張文經『そらまでのすべての名前』
紫衣 一縷の灯火のように 大島静流『蔦の城』
【特集】抑圧に抗して 世界からの声
◎対話
ドゥルス・グリューンバイン+縄田雄二(司会) 文学の彼岸 朗読とトークの記録
◎論考
藤井貞和 現代の予言  宮尾節子+佐藤幹夫『明日戦争がはじまる【対話篇】』
山口 勲 パレスチナで詩歌を語る人が殺されている
佐藤まな TELL THEM ガザにおける民族浄化をめぐる英語パレスチナ詩人たちの発信から
柴田 望 冷笑に抗う声 『NO JAIL CAN CONFINE YOUR POEM 詩の檻はない』
◎作品
山崎佳代子 塩を運ぶ
ハーラ・アルヤーン 帰化した 佐藤まな訳
千種創一 オレンヂと鰭
永方佑樹 千年紀
◎巻頭詩
伊藤比呂美 根
◎長篇詩
宇野邦一 光のまちがい、時間のめまい(下)
◎受賞第一作
大木潤子 その眼の光から 第61回歴程賞受賞第一作
佐野 豊 思いの丈 第55回横浜詩人会賞受賞第一作
◎連載詩
高橋睦郎 在る 在った 無かった J・Cn・F・ヘルダアリンへ
川満信一 クイチャー 他一篇 言語破れて国興るか
平田俊子 柿色 なにが詩それが詩
井戸川射子 今まだ、間違ってるとは言えないだけの いい運搬
◎作品
廿楽順治 二十世紀の自転車屋
鳥居万由実 ぜったいにげんじつにあらわれてはいけないもの
一方井亜稀 春風のち、
塚本敏雄 はばたき
◎『岡崎純全詩集』を読む
荒川洋治 岡崎純の「おうしお」
倉橋健一 地方主義とは何か『岡崎純全詩集』が語るもの
◎連載評論
蜂飼 耳 集積と並列から上昇へ  小笠原鳥類 詩の現在へ
◎レクイエム
高橋順子 三木卓さんの思い出
◎新連載
青野 暦 生まれ来る者たちのまなざしに 明るいページで[インターポエティクス]
◎月評
神尾和寿 「詩の書き方」とは 詩書月評
松本秀文 「幸福だった日々の翌日」を生きる者たちへ 詩誌月評
安里琉太 書き重ねてゆく書きぶり 小澤實『澤』 到来する言葉[俳句]
笠木 拓 (遠さ?)という問い 郡司和斗『遠い感』 うたいこがれる[短歌]
◎書評
犬飼愛生 実態を追ってバスに乗る 中塚鞠子『水族館はこわいところ』
竹中優子 世界にはよろこびがある 佐藤文香『渡す手』
和田まさ子 やさしさの「正体」 金井雄二『げんげの花の詩人、菅原克己』
外間隆史 十年寿命が延びる本。 斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』
◎新人作品 2月の作品
◎選評
山田亮太 「ここにしるされたどこへももういくことはないので」
峯澤典子 失われた器官に似た一語を求めて
表紙・扉写真=公文健太郎
表紙協力=小髙美穂
表紙デザイン=中島 浩

宇野邦一 『光のまちがい、時間のめまい(下)』が掲載されていたので借りた。(上)は『現代詩手帖2024年1月号』に掲載されていたので、その続きが気になった。

この号には、伊藤比呂美『根』も掲載されていた。『現代詩手帖2024年1月号』には出てないので何かトラブったのかと思ったがそうではなかったのか?『現代詩手帖2025年1月号』も掲載されてないな。なにか事情があるのだろうか?あまり深くは追求しない。

伊藤比呂美『根』も普通の現代詩になっていて、荒々しさがないように思う。大人と言えば大人なんだろうけど、詩よりもラジオとかの方が面白い。

山崎佳代子『塩を運ぶ』は四元康祐のエッセイで度々出てくる詩人で日本ではそれほど知られてないが国際的には知られているコソボ紛争地域に在住する詩人だった。戦争の紛争地いながらNGOの人権活動をしている詩人だという。

『塩を運ぶ』というタイトルがガンジーの民主化運動や藤本和子とも繋がるのかもしれない。

この号は戦争特集だろうか?ドゥルス・グリューンバイン+縄田雄二(司会) 文学の彼岸 朗読とトークの記録。ドゥルス・グリューンバインはドイツの詩人・作家。ドイツのドレスデン爆撃を体験している敗戦国や勝戦国問わず戦争の悲惨さを伝える詩を書く。圧倒的な武力の差は、そこに優越思想があるのかもしれない。ナチズムがそもそもそういう思想だったが。

関連してパレスチナ問題とイスラエル。ユダヤ人がかつてナチス迫害を受けていたのに同じことを繰り返す。そして世界へ難民となって分散していくパレスチナ人なのである。ユダヤ人が『聖書』を生み出したように、パレスチナ人は現代の詩を生み出して抵抗するのである。その声は消すことが出来ない。

宇野邦一 『光のまちがい、時間のめまい(下)』

混迷する世界へ対しての諦念があるのだろうか?宇野邦一と言えばドゥルーズの翻訳者であり結構親しんでいたつもりがある。ドゥルーズのベケット論『消尽したもの』でもう燃え尽き症候群的な、老人文学というようなものを感じてしまう。

以前宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(上)」をやったのでその続きだった。



ぼくの人生が混迷してゆくのとひきかえに
きみの人生が簡明になるのがいいと……
混迷とか簡明とかどこから誰が何をみて言うことか
それぞれのモナドはそれぞれの度合いで
混迷・簡明な世界の像を獲得し……

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

太字はデイヴィッド・イグナート『死者を救え』からの引用。

詩が対話であるならば、きみは詩人(宇野邦一)に贈られたものであり、それに答える次行なのだと思う。「混迷・簡明な世界」を像(イメージ)として享受しているのか?その部分は三点リーダーの言葉にならない砂の言葉にあるように思える。

ぼくはにわかに哲学史を読みはじめ
世界と自分の関係を整理整頓するように読み
相変わらず混迷し そして簡明をよそおい
軽くなったり重くなったり
どちらにも どうにもならずに
明減する電流を感じている

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

これは世界を理解しようと哲学史(現代思想)にハマっていくことか。そんなふうに宇野邦一を詠んで、混迷し・簡明(理解)していたのだろう。しかし、それらは明減する電流(言葉)を感じているに過ぎなかった。

2022年6月25日1時46分
秒まで書きとめようとするが
秒という字を一秒以内で書けない
尺取り虫がよぎっていった もう測れない時間
生きているその場所は 洞窟よという人もいる
それでも入口があり出口があるか 確かではない

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

現実(時間)を理解しようと思ってもそれは尺取虫の歩みで蝶になるには程遠い。蝶は胡蝶の夢の比喩。時間論に陥るのはこの頃の現代思想だったか。それはプラトンの洞窟の比喩から始まるが、そこが入口とも出口とも判断つかなくなるのだ。これは時間(論)のパラドックか?なぜならすでにその洞窟に閉じ込められてしまっているので外の世界と違うのだ。そこにタイトルの意味性があるのかもしれない。

すぎさったかなしみをいまよろこびをもって想起し
よろこびをかなしみをもって想起することがある
よろこびやかないしみの記憶は精神のどこにあるかと教父は問うた
かなしみと かなしみのよろこびは同じところにあるか
記憶という野原 広大な広間
しかしほんとうの問い
そんな場所ではありません
記憶をこえていくしかない
神を忘れたとしても 神は記憶ではないのだから
記憶の彼方にたどりつくしかない
問いは自失

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

ここの太字はアウグスティヌス『告白』の引用。教父はアウグスティヌスなのだ。しかしその問いはプラトンの洞窟の比喩を受けて、それはイメージでしかないという(たぶん)。その根源(光の起源)を問うことは神を否定し記憶(イメージ)を否定することなのである。それは時間(論)の自失の問いと同じでいつまでも問いに辿り着かない。

泥のつぶやき 泥ろの語らい 灰のさけび
つぶれた声できれぎれに
明減する灰のつぶやき
点滅 灰のつぶやき
つぶやかない 耳 あとかた

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

泥のつぶやきは哲学史の問いであり、それを宇野邦一は「泥」というのだが、「砂」のほうがイメージしやすいかも。それは砂漠の思想(一神教の思想)で砂時計に閉じ込められていくプラトンの比喩のイメージ。彼方に見える蜃気楼は幻なのだ。ほとんどそこに神秘思想に入りこみそうになるのだが、世界にはそれとは反対のアニミズム世界もあった。

鳥の言葉を発するようになったか
難しい 通じない言葉だ
自分からじぶんへのつぶやきも
もう不可解な鳥の言葉になった

宇野邦一「光のまちがい、時間のめまい(下)」

鳥だけど翼を失った鳥だという。籠の中の鳥。鳥が鳥籠を必要とする(探しにいくだった。)と言ったのはカフカだった。問いはつぶやきなのだ。翔べない鳥の。前半はすでに書いていたので、今日は後半を、虫が出てきたのでそれをついばむ鳥のイメージでいいか?

【特集】lux poeticaの詩人たち

まず「lux poetica」という意味がよくわからない。ルックスがいいとかういう詩人なのか?エッセイの中で印象派という言葉が使われてそういう詩を書く若手のようだ。意味性を求めない、言葉の叙情性に囚われない、言語派みたいな(美術で言えば色彩派みたいな)。根源的な言葉を求めているのだが、その言葉の組み合わせや派生から生じる効果みたいなもの。それは例えば『万葉集』ではなく『古今集』から『新古今集』になるような。藤原定家に触れたエッセイもあったような。

こういう世界は苦手というか、まあ何々派というカテゴリーが何か派閥めいて内輪な感じがする。それはその中の詩人たちのせいでもなく、売るためのセールスの言葉のような、新製品なのだろうか?

一方で世界に意味性を求める実存的な詩があり、もう一方に記号的な現象主義というような詩があるような感じなのか?そいうことに疲れてしまうというか、消尽してしまったのだろうか。

蜂飼 耳 集積と並列から上昇へ  小笠原鳥類 詩の現在へ

蜂飼耳の小笠原鳥類の詩の分析がそんな感じだろうか?記号論的現代詩。好きな言葉のコレクションというような。そこから上昇していくというのだが、良くわからない。例えば吉岡実へのオマージュ。好きと言えばすきなのだがわたしは意味的なものを求めてしまうのだ。好きな感覚。ただ好きだけでいいのか?そこにもっといろいろな要素があると思うのだがそれがわからない。「健康」という言葉の氾濫がもしかしたら「健康」というような意味ではなく「不健康さ」を求めているのかとか、逆説的な意味性があるように思う。そういう意味性をもとめてしまうのがナンセンスということなのだろうが。センスなのだ。このセンスが良くわからないというか、それが詩の出発点になるのだろう。なぜ詩を書いているのか?

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