数奇者は好き者?
『西行 (人物叢書 新装版)』目崎徳衛
最初に各地に残された西行の伝説をめぐって、その伝承もすべてが嘘話でもなく、西行は高野聖であることから柳田國男などはその伝説に注目したという。西行は歌人だけに留まるべきの人ではなく、武士であったり僧侶であったりした中で政治や宗教にも多大な影響を与えた人だとする。
西行は北面の武士として頼朝が弓馬の教えを請うたというほどの武士だった。それは将門を追悼した俵藤太(藤原秀郷)の末裔なのだ。祖父は白河院の時代の名の通った検非違使であり、また母は後白河院の今様の師であった。
祖母は源清経の女であり、清経は蹴鞠の名人でもあった。外祖父である清経は「数奇者」であり、その影響が西行にもあったとする。武士の素養は父方の血を引き、芸能の血筋は母方にあったという。文武両道でエリートだったのだ。
西行は北面の武士として鳥羽法皇に使えていたのだが、それは文武に優れて美貌でなければ鳥羽法皇の閨(当時は男色は当たり前にあった)などに入れないのである。そういう若人だったのだが、それが不満でもあったのだろう。
また同時代の鴨長明や文覚などの証言から妻娘がいながら出家したのは事実であろうということだ。きわめて通常の生き方をしていたのに突然の出家の原因は何だったのだろう?新仏を求めるよりも武士という誰かに仕えるのがたまらなく嫌だったのだろうと思われる。何よりも自由であることが一番であったのだろう。それが自然のままに花と月を愛でた西行像なのかもしれない。
西行の出家の原因はいろいろ言われているのだが、まず鳥羽院の北面の武士時代に突然人が死ぬので世が嫌になった説。
詠み人知らずにされているが、西行が若い時期の記念すべき作品であり、遁世する事実は含まれるが理由がないという。それは遁世した直後の歌では不安を述べているからだ。
そして恋の痛手説。
西行の月の歌は手の届かない恋の相手(待賢門院璋子)だったようだ。
それで月の歌を憧れとして詠んでいるわけだった。藤原定家が『百人一首』に入れたのも恋の歌としてであったという。西行の恋歌は圧倒的に当時の歌壇では人気だったのだ。それを考えると恋の痛手説よりもむしろ恋歌歌人として一芸にすぐれていたのではないか?そしてここでも、芸道説を取っている。
数奇者という『百人一首』なら坊主めくりのような系統があり、そこの一群に西行も含まれていた。歌道が何よりも、西行に取って、勤めよりも家庭より重要であったとする。その過程での色恋はそこに含まれるということで、仏教を極めたいというのではなく芸術家として数奇者でありたいというのが真意のようだ。
それでも仏門に入るわけだから真似事ぐらいはしなくてはいけない。そこで元々頭のいい人だからけっこうな坊さんにもなって、あっちこっちからもお呼びがかかったということらしい。西行が憧れたのが能因法師で、当時は歌人坊主がトレンドだった時代のようである。
西行は数奇者の僧侶(能因法師など)に憧れ出家したので、最初は仏門の意識は低かったが晩年になってから心を入れ替えて仏の道を目指すようになり、世に有名な「ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」を残したことで慈円や定家・俊成からも注目された。桜の西行とまで言われたが、むしろ「ねがはくは」の歌は釈迦入滅の一日後だったので、伝説として仏教説話などで西行の功徳として拡がったという。そして漂泊する僧や連歌師たちによって地方へ西行の歌が伝えれて伝説となっていく。その最大の功績者は芭蕉であり、芭蕉の西行敬慕からさらに西行の歌の評価が高まったという。
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