「サマータイム」から見えてくるのクッツェーの過酷さ
『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』J・M・クッツェー (著), くぼたのぞみ (翻訳)
この本の前にサイード『文化と帝国主義』を読んだので、これはポスト・コロニアル文学だと思った。
大江健三郎がサイードの「晩年の仕事」をヒントにそれまでの自書の読み直しをしているが、まさにそのような本で、「幼年時代」「青年時代」はクッツェーの内面形成の話。
それはアフリカーナというアパルトヘイトの中にいながらイギリスのモダニズム詩人への憧れ(詩人になりたいと明言する)それはもう一つの帝国主義でありながら自己否定していく生き方を求めるのだ。
アフリカーナというアパルトヘイトの植民者でありながら、もう一方でアフリカーナはイギリスの帝国主義と戦っていくのだ。しかしそうした親世代とは違い、彼はアメリカのモダニズム信望者だった。日本の戦後世代(村上春樹的な)に近いのかもしれない。しかし、イギリスに留学するとイギリスに裏切られて自己を喜劇化するしかないのが「サマータイム」という小説なのだ。夏目漱石の留学体験に近いのかも。
「サマータイム」の部分がクッツェーという自己を祀った後に登場させる5人の人物たちによって、それまで見えてこなかったクッツェーという人物の批評になっている。そこに様々な視点があり、それは同時に彼らの物語でもあるという疎外されていく一人のアフリカーナがいるのである。「サマータイム」が黒人の子守唄であり、その父である存在はアフリカーナ的であり、その子供たちは別の時空に生きなければ生きていけないのであった。それがフィクション(虚構)という物語のズレた時間なのかもしれない。
パーカーの「サマータイム」が聴きたくなった。