「逆張り冷笑おじさん」より「天邪鬼」
『「逆張り」の研究』綿野 恵太【著】
ポスト・モダンの洗礼を受けてきた世代には「逆張り冷笑おじさん」はもしかして自分のことかもと思ってしまったが、自分は天邪鬼だと開き直っている。おじさん視線の上から目線が駄目というか、勝手にやったもん勝ちだと思っている。そのへんアナーキーな生き方には憧れているのだとは思う。批評が通用しなくなった時代、感情論で左右される時代はそうなのかもしれない。物語を必要とする者たち。かつてはその物語を批評するということがポスト・モダンではあったのだが。大きな物語にはくみしない。それがアナーキストだった。
ネット社会の変遷では、かなり重なるかもしれない。かつて2ちゃんが好きだったし、今のXには絶望の世界しかない。何かを構築するにはnoteのような場所でほそぼそやっていたほうがいいのかもしれない。あまり注目されるのも神輿を担がれて身動き出来なくなってしまう。何よりも自由さに憧れる。
確かに「逆張り冷笑おじさん」になりつつあった。相互理解の不能というか一番の驚きは批評が必要とされない社会になっていたということだ。確かに感情論で左右される社会だと思っていたがもうどうすることもできないのであろうか?感情論というのは物語を必要とするということで、それが大きな物語という同一化を生んで先の戦争のような悲劇を招くものだと思っているのだが、そういう感情論に対抗するには、もう一つの感情論(小さな物語)を形作っていくしかないんだろうなとは思う。ただそれも物語(内輪の世界)と成りうるのでシニカルに距離を置いて「逆張り冷笑おじさん」になりつつあるのかな、と自己分析してみるのだが、要は天邪鬼ということなのかもしれない。
「逆張り冷笑おじさん」よりは「天邪鬼」という生き方の方が好きなのは鬼の力を信じているからだろうか?それは批評という方向ではなく文学(パーソナルな鬼の生き方だ)というアナーキーな力のようなもの。著者が上げていた町田康の登場人物のようなアナーキーさ。そういうものが好きなのである。
ポスト・モダンの洗礼を受けて、一応批評というものを考えてきたが堂々巡りのように思えたのは事実だ。その根本に資本主義社会があり、今は商売になることが第一とされる。それじゃないと何事も成り立たない世界であるというのだ。みんな金の心配ばかりしている。金の心配がなくなんでも出来る才能を羨ましく思うのだ。
小林秀雄も吉本隆明も「逆張り冷笑おじさん」となるのなら「天邪鬼」的生き方がいいのかもとおもってしまう。少なくともおじさん目線の上から目線はなく、なんでもやったもん勝ちだというやりたいことをやればいいのである。そのときに物語に飲み込まれないようにすること。それはオウム真理教の反省でもあるかもしれない。
そこのところで村上春樹は同世代(本当は上の全共闘世代なんだが)として享受してきたのかと思うが、東野圭吾はよく分からなかった。ラノベでしょと思ってしまうのだ。ラノベだからどこが悪いと言われればそれまでだ。ディックもパルプ・フィクションと言われていたっけ。
同世代といえば『完全自殺マニュアル』の鶴見済のどう生きても絶望状態というのは感じることではあるが、その中で楽しみを見出していくこともできるはずだ。人格改造マニュアルはディックのSFみたいな話で、薬物にハマっていく登場人物もディック的なのだが、ディックの世界ではその薬物も資本家が握っているということだから薬物に溺れるほど資本家の利益になる仕組みが出来ているのである。それはヤクザ社会とそうした製薬会社が裏で繋がっているシステムという陰謀論なのかもしれない。ワクチンなんて打つ気がしないのは、そういう製薬会社が絡んでいるからである。
何よりも人間の中にある耐性というものを信じているのだ。だからやたら消毒するような思想では駄目になっていくのだと思う。むしろそれを逆手に取ってサバイバルゲームだと思うのがいいのかもしれない。死んだらそこまでだった。ゲームオーバー。ゲームオーバーにならないためには隙間を探して生きていくしかないのだと思う。