
シン・現代詩レッスン96
黒田三郎「一枚の木葉のように」
『黒田三郎詩集』(現代詩文庫)から「一枚の木葉のように」。黒田三郎の詩は現実の自分自身を鞭打って嘆くのだ。それは時代の社会への反抗として豊穣の生活に対して貧困を読む。6-70年代はまだそうした詩が読まれていた。やっぱその辺りの出自は「荒地」派なのだろうか?
一枚の木葉のように
歩きながら
お前はぼんやり窓の数を数える
半ば開かれた窓
ひっそりと閉ざされた窓
数えながら
お前はすこしずつ忘れてゆく
お前を脅かすすべてのことを
十分に果していない仕事のことを
妻子の明日の衣食のことを
パチンコ屋ですってしまったお金のことを
どうしようもない詩人だと思うのだが。ふと高層マンションの窓明かりを見てそこに人は幸福に暮らしているのかと思う。竹中優子『冬が終わるとき』の中に詩で「 攫う」の中でベランダに佇む人が出てくる。川で佇む二人(恋人?と語り手)を見ているのだが、「方丈記」の世界で「ゆく川の流れは絶えずして」なのだから昔も今もそういう人は一定数いるのだろう。その詩は彼女(語り手)が自殺しなかったことで終わる。彼女は新しい生活を掴んで洗濯物を干している。そのよれた白いTシャツは男のものだろうか?そう言えば黒田三郎にも「洗濯」という詩があった。どうしようもない男の詩なんだけれども。
「妻子の明日の衣食のことを」考えるのは贅沢すぎると思ってしまうのは、それならば妻子など持たずに一人で生きていけと思う。それで説教じみた詩を読まれされてもと思うのだが、妻子を得るのも欲望であり、欲望を諦念出来ない身ならば仕方がないのだと思う。竹中優子『冬が終わるとき』の詩もそういうものだろう。
なんかそのノスタルジー観が嫌なんだ。パチンコですってしまった行為をしながら反省する。どうしようもない男の詩だと思うのだがかつてのわたしもそうだったのかもしれない。
ビック・ニュースはすべて
お前の知らない中に生れ
或いは育つ
水死人の髪の毛のようにからみ合って
お前の中に流れるもの
それは無数のことばだ
ラジオのことば
新聞のことば
ことば ことば ことば
この部分が好きなのはことばの世界に溺れているからだろうか。今だとネットのことば。しかし、それは否定的に使われていた。
お前は信じない
自らを指導者に任じて恥をしらない者を
ことば ことば ことば
ことばのみ!
お前の飢えたこころ
こうして詩を書くのもことばのみだと思うのだ。飢えたこころ(欠損)を埋めるためことばなのである。そこにノスタルジーの恋バナが咲こうとそれが妄想だろうが、パチンコをやるより生産的だろうと考えているのかもしれない。無産階級なのだ。無産階級の夢なのだ。
ああ
すべてがまるで昨日と変わってないことが
一瞬激しく
お前のこころをゆすぶり
脅かす
溝泥の匂い
カビの臭い
生殖の臭い
こういうのが胡散臭いと思ってしまうのは結局詩を売って稼いでいるではないか?それでも生活臭を求めているのだ。本心はそっちにあると思う。
暗い陰気な曲がりくねった裏通り
お前は激しく唇をかむ
「俺は明日もこの道を行っては帰ってくるのか
俺が毎日行ってはただ帰ってくる道を」
結局、そういう道を望んでいるとしか思えないのは、そうした歌に対するあこがれがあるからなのだろうか?浅川マキ「裏窓」を聴きたくなる。
道に迷ったら川に行け
道は山に通じる
川は海に通じる
道に迷ったら川に行け
親父の人生訓なんて聞かず
川でボーッとするがいい
それで解決しなければ
冷たい川に飛び込むんだな
川に行って
投壜通信という身代わりの
言葉を壜につめて
川に流せば黄泉の国から
返事がくるかもしれない