ランボオに母なるものを求めて
『イリュミナシオン ランボオ詩集』アルチュール・ランボオ (翻訳)金子 光晴 (角川文庫)
20歳までに詩才のすべてを燃焼させ灼熱の砂漠へ消えていった早熟な天才詩人ランボオ。だれもひらいたことのない岩穴の宝庫をひらき、幻想的な感覚の世界を表現した彼の作品は、今なお光り輝き、年月を重ねるごとに新鮮な衝撃を与え続けている。本詩集には『イリュミナシオン』『酔っぱらいの舟』を含む代表作を網羅した。
ランボオの名は、光り輝いて、日を経るに従って、
いよいよ新たに、若い芸術家の血肉をつくりつづけている。
昨日の花がみるかげもなくしぼんでゆく変転の世相のめまぐるしさの中で
まことにそれは稀有なことといってもいい。
――金子光晴(詩人)
ランボーを読む歳でもないのだが、金子光晴訳に惹かれて古本屋で買ってしまった。金子光晴は、ランボーのように詩を捨てることなく80まで詩人として生きた。ただ放浪生活と女性に対する思いがランボーと共通するのかもしれない。
金子光晴のランボーに共鳴する響きは、『酔っぱらいの舟』に出ているだろうか?
僕は見た。空にふりまかれた星の群島を!
有頂天な空が、航海者たちをまねいていているその島々を。
百万の黄金の鳥よ。未来の力よ、この底ふかい夜のいずくに、
おお、どこに、おまえは眠っているか。どこにかくれているか?
正直に言えば、僕には、かなしいことがたくさんすぎた。夜明けになることに、この胸はり裂ける。
月の光はいやらしく、日の光は、にがにがしい。
この身を噛みとる愛情は、ただ、喪失したような麻酔で、僕を膨らませるだけだ。
おお、僕の竜骨よ。めりめりと砕けよ!おおこの身よ。海にさらわれてしまえ!(ランボー『酔っぱらいの舟』より)
金子光晴の詩に「女へのまなざし」を指摘したのは、 茨木のり子であった(ちくま日本文学全集『金子光晴』あとがき)。それは、言葉の根源から探っていくランボー『母音』を見ればあきらかだろう。
Aは黒、Eは白、Iは緑、Oは青、これらの母音について
その発生の人のしらぬ由来をこれから説きあかそう。
Aは、苛烈な悪臭の周りに唸る
金蠅どもの毛だらけな黒い胸着(コルセット)。あるいは、影ふかい内海。
猥雑な中に潜む海は、母なるものなのだ。海はランボーの詩の中に現れる母なるもののように思える。ゴダール『気狂いピエロ』に出てくる「永遠」の詩。
とうとう見つかったよ。
なにがさ?永遠というもの。
没陽といっしょに、
去(い)ってしまった海のことだ。(同書)
「太陽と肉体」に出てくるヴィーナスは、母なるアフロディテ(海の女神)なわけです。ちなみにヴィーナスはローマの神でギリシアではアルロディテだということです。ただランボーはごっちゃにしてまして続いて「泡の中から生まれたヴィナス」では娼婦に成り代わっている。それはローマ・カトリックへの冒涜なのか、肛門の腫物まで見せると書いている。
その母の面影が消えていくと共に少女の娼婦が現れる。「こまっちゃくれた娘」の愛らしさは、タイトルに出ている。それはまだランボーが韻文で書いていた頃で、その後に散文の「地獄の季節」が書かれるわけですが(ヴェルレーヌとの事件後)、すでに母なる海は消えていたのかもしれない。