吉野弘『I was born』
現代詩のアンソロジーを探して、中西進『詩をよむ歓び』を図書館から借りてきた。詩と共に中西進の解説。この詩では、母性の尊さを問うが、それは『万葉集』の研究者らしい詩の読み方なのかもしれない。母性について、考えてみたいのは、今の時代子供を産むことが合理的なことなんだろうか?と思うからだ。非合理なことでも本能として備わっているのかもしれない。その不合理なことを詩は讃歌としてみせる。それは蜉蝣のようだった。
散文詩か。エッセイのように読ませるが言葉の意味を問う詩になっている。吉野弘が人気なのは純粋さなのだろう。その純粋さもちょっと違うんではないかと思ってしまうのは嫌な大人になったからだろか?
父との散歩とは?あまり経験が無かった。中学生の頃だと反抗期だと思うが、随分と従順なのだと思う。また父と妊婦を見るという気恥ずかしさがあったので英語の話題にしたのかもしれない。理知的な親子像がここにはある。セックスについてはまだ語れないのかもしれない。
「生まれ出ること」について、ここでは赤ん坊のことを言っているが詩を生み出すということも含んでいるような気がする。それがI was bornなのだ。つまりここで詩の秘密について、それは自己本意で生まれないということなのかもしれない。
自分の意志ではない詩の言葉。なるほどと思う。どこか父との問答も儒教的に思えてくる(孔子的な父)。
この論理に騙されるなと思ってしまう。蜉蝣は幼虫時代もあったはずだし、蜉蝣が蜉蝣であるための最終形態を言っているわけで、それは言語上のまやかしで生物学的には意味がないことである。つまり譬え話を人間でしているのだが、この擬人法は正しくはないのだ。父の論理は蜉蝣(これも喩えならば詩ということなのかもしれない)に喩えて別のことを言おうとしている。
この友人の話が実際にあったのかは問わないが、あまりにも人間的な叙情性に則った見方ではないか?先に蜉蝣の寿命は幼虫時代も入れると一年から半年で通常の虫に比べ極端に短いということはないらしい。また昆虫は人間と違い多産の卵を産み落とすのは、その中で二、三匹成虫になれば子孫は残せるからだった。人間とは構造が違うのに強引過ぎるだろう。そこにはある意図が隠されている。
父の最後の言葉を持ってくるための喩え話だった。でもお前の母は、蜉蝣なのか?あまりにも強引に結びつける父の論理だと思う。