「高橋源一郎と読む 戦争の向こう側2021」
宮田俊行『林芙美子が見た大東亜戦争』(単行本– 2019)
サブタイトル「『放浪記』の作家は、なぜ「南京大虐殺」を書かなかったのか」は、著者は「南京大虐殺」は無かった説でそれをいちいち取り上げません。ここでは林芙美子の従軍記を読むことを主点としたいと思います。林芙美子の従軍記『戦線』は絶版になっています。宮田俊行『林芙美子が見た大東亜戦争』も今は絶版で、Kndleでしか読めませんでした。まあ、絶版になるのも当然といえば当然の本なんですが。
林芙美子という流行作家がいかに機敏に庶民の心情に沿っていったのかはわかる。作家になりたての頃はプロレタリア文学に共鳴して逮捕されたこともあるという。そもそも林芙美子は貧困階級の生活を描いてデビューした作家だ。だから貧困者には敏感だった。当時そうした貧困階級の受け皿となったのは、インテリを中心とする左翼ではなく、民族主義を謳う皇道派の国家主義的な右翼思想だった。そして彼らが日本ではなく新天地として五族協和の夢は満州など中国に向けられたのである。
伊藤比呂美が林芙美子の手記を読んで、詩から感じる感性は、和歌を天皇の代わりに詠んだ古代の歌人と共通するようなことを言っていた。林芙美子の文章は、客観よりも感情に訴えるのだ。それがプロパガンダとして利用される。林芙美子自身が情報戦において西欧諸国より遅れていることを述べているではないか。林芙美子が従軍作家としてその情報戦を受け持ったことは、ナチス政権のプロパガンダを撮ったレニ・リーフェンシュタールと同じなのだと思う。ただそこには大衆の感情が作家に同調していくところを見なければならない。
ETV特集「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々〜」「国防婦人会」の宣伝広報だったのは林芙美子らの作家たちなのだ。
『ボルネオ ダイヤ』
南洋に浮かぶボルネオ島の慰安婦の話。欲望のままに生きる珠江と慰安婦という不自由さの中に生きる澄江を対照的に描く。珠江に恋人の商社マンがダイヤをプレゼントするからこの題名に。日本の妻にダイヤをプレゼントするがお国のためと言って寄付してしまったという。それをダイヤの価値も知らないでと男が嘆く。珠江はそれが幾らするのかと尋ねるからプレゼントのしがいがあるという。もっとも珠江は真っ赤なルビーの方がいいと思う。
もう一人の慰安婦の澄江はこんなところから早く逃げたいと思いつめ恋人と逃亡しようとするがそれも出来ない。澄江は恋人が前線に送られるので自殺する。
その悲劇を見たあとで、珠江らは、ボルネオの海岸に行くと海が赤く染まっていたという話。それは赤潮なんだろうか?と思ったが、やっぱ林芙美子だと夕焼けなんだろうな。戦争なんてどこでやっている?と珠江は思うのだった。それが林芙美子らしい。欲望のままに生きる放浪する女という感じか。澄江の自殺を描くことによって戦争の悲劇も語っているのだった。終戦後に書いた作品だから。
古山高麗雄『プレオー8(ユイット)の夜明け―古山高麗雄作品選』
表題作の「プレオー8」は捕虜収容所の名前。そこで描かれる捕虜たちの生活と戦争の記憶の断片。錯綜した語り手はジャングルを彷徨っている感じ、実際に行軍の回想も出てくる。大岡昇平『野火』に近い文学だが、ユーモアがあるので面白く読めた。収容所での劇団のこと。作者は楽しませようとする指向性がある。兵隊は男ばかりで情緒ある劇をやるのだ。女形が出てくる歌舞伎みたいな感じ。次第に劇がストリップのような見世物になっていく。ホモになっていく心理みたいなものも、温もりがない軍隊生活で温もりを求める語り手。
だから現地の言葉で現地の女をナンパしようとする。つたない言葉でコミュニケーションしようとするがそこにも敵味方という壁がある。慰安所にも通ってしまう性欲を肯定してしまうが、慰安所の檻の中で性欲処理をするのが嫌で現地人との交流を夢見る。中国人捕虜が裸で縛られて外に放置された時に監視役だったのだが、余りにも捕虜が号泣するもんだから抱いて上げる。寒い夜だったので。それでも号泣が一層大きくなって上官が来て、うるさいから、こうやって黙らせるんだと暴行して半死状態に。捕虜に苦痛を与えてしまったと反省する語り手。
大岡昇平『野火』『俘虜記』とは違った部分が見えて面白かった。ユーモアの中に悲哀がある文学。ダメ人間の軍隊体験記のような。NHKラジオ「高橋源一郎と読む 戦争の向こう側2021」で林芙美子と一緒に取り上げられた作家。両方読むことで実際の従軍記と従軍作家の従軍記の違いを読む。肌感覚かな。
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