今、大江健三郎を読むことの意味。
『燃えあがる緑の木〈第1部〉「救い主」が殴られるまで』大江健三郎 (新潮文庫)
大江健三郎が亡くなって、そういえば読んでない本があると思って調べたら、「100分de名著」で2019年に取り上げられていた。NHKのことだから、再放送に期待するんだけど公式サイトでも十分情報は得られた。
『燃あがる緑の木』はイェーツの詩のメタファーから半分は燃えているが半分は緑だという木のモチーフから来ている。
その語り手としてサッチャンは両性具有として描かれ彼女の両義性がイェーツの詩「燃あがる緑の木」のメタファーとして体現しているのだ。
最初オーバー(オバア)は巫女的な存在として「壊す人=救い主」の神話の語り部として、かつてのギー兄さんがその「壊す人=救い主」の神話を受け継いで、60~70年代に四国の村の改革運動を進めたのだが挫折する(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)。
その後継者としてオーバーが「新しいギー兄さん」を指名して亡くなった。最初はサッチャンはこの新しいギー兄さんに疑心暗鬼で接するのだが、次第にパートナーというより導き手として(ダンテを導いたベアトリーチェ的に)関わっていくのだ。
それはオーバーがかつてのギー兄さんの巫女として関わっていたようにサッチャンもオーバーの後継者としてなっていく成長物語となっている。
物語の生成変化というべきか?大江健三郎の物語の語り直しは、文学としてフォークナーやバルザックの影響を受けて(架空の村、人物再登場法)、円環構造の語り直しのマジック・リアリズムとして、例えば彼が自ら言うようにフォークナーの息子たちだった。日本という共同体の中に四国という森の特異性を見出し、新たな共同体を夢見るフィクションとなっている。またそこに大江健三郎の分身、ここではK伯父さん(傍観者ではあるが、重要な位置にいる。また大江健三郎の家族も登場して来るのだ)とし登場してくるのはメタ・フィクション(批評的小説)とも言える。
大江健三郎の文学が一作品の中で完結するものではなく、繰り返し時代の中で問い続けていくのは文学の根本的な問いなのだろう。「エロスとタナトス」が需要なテーマとなるのも根源的なものをそこに見出すからだろうか?
そしてこの作品は、80年代の新興宗教の問題(オウム真理教事件の前こに連載されていた)が重要なテーマとなってくる。そんな中で文学と宗教という古くからある文学問題を導き手として新たな虚構世界を築いていく。
新しいギー兄さんは、オーバーに認められ村人にも信頼されて不思議なヒーリング(治癒)を得るのだが、最初からその能力がある人というより、新しいギー兄さんはその能力に懐疑の人として葛藤していくのだ。しかし彼は共同体の中で認められてしまう。神輿を担がれるように村人から支持を得てしまうのだ。それは死んだオーバーが村の中心人物だったから、その後継者に指名されれば、当然村人は彼の力を求めるようになる。
そんな中でオーバーの葬儀は火葬というより村に伝わる螢葬というような山の信仰によって祀られる(その葬儀が後継者の儀式のようになっていく)。オーバーとギー兄さんの関係は万葉集の大津と大伯皇女を連想させる。また山の埋葬は火葬(仏教)よりも古代信仰(柳田国男とか折口信夫)の影響があるのだろう。オーバーが巫女であり、山の神(壊す人→ギー兄さん→新しいギー兄さん)を求めたのも神話性を求めたのだろう。
新しいギー兄さんは教祖としてよりも最初は懐疑の人して描かれるのは注目に値すると思う。日本の個人が西欧のような個人主義でもなく、共同体の中で担がれてしまうというのは80年代の若者たちから支持を得たサブカルやニューアカの教祖たちに繋がっていくような問題であるように思える(筑紫哲也『若者たちの神々)。
オウム真理教も最初は既成の宗教の権威主義的側面から、密教というドグマに新しい可能性を見出していくものだったのだ。何よりもその対立構造はここに描かれているように共同体と新たな共同体の対立であった。その体験の中で新たなギー兄さんの挫折があるのだ。そのときに力になる「妹の力」というようなものだろう。サッチャンの巫女性はここでは需要になってくるのだ。
それは反権力でもあったのだがどんどんヤバい方向に向かっていく。作家(大江健三郎)は静観するしかなかったのか?