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クッツェーの写真が都会に出てきた田舎者ようだという

『J・M・クッツェーと真実』くぼたのぞみ

日本初のクッツェー論

「クッツェーを翻訳することは、彼の視点から世界全体を見直すレッスンだった」
――ノーベル文学賞作家J・M・クッツェーの翻訳を80年代から手がけてきた著者が、クッツェーの全作品を俯瞰し、作家の実像に迫る待望のクッツェー論。
1940年、南アフリカのケープタウンでオランダ系植民者の末裔として生を受けたクッツェーは、故郷を出て、生まれ育った土地の歴史について外部から批判する視点を養い、自らを徹底検証し、植民地主義を発展させた西欧の近代思想を根底から問い直す試みを、創作を通して行ってきた。著者は、作品を取り巻く社会的・歴史的背景、作家の動機と心情、その変遷に深い針を入れるように調べていく。自伝的三部作を翻訳するためにケープタウンを訪れ、少年時代を過ごした家や風景を見て歩き、フィクションと自伝の境界を無化しようとする作品の、奥深くに埋めこまれた「真実」を解き明かしていく過程はスリリングだ。
作家が来日した時の様子や、アデレード大学で開かれたシンポジウムに招待され、作家の自宅でゲストたちと食事を共にした時のエピソード、言語と出版についての作家のラディカルな活動、翻訳作業の過程のやりとりから伝わってくる作家の素顔も貴重な証言となっている。巻末に詳細な年譜と全作品リストを付す。
目次
第1章 南アフリカの作家、J.M.クッツェーと出会う(ショッキングピンクの砂時計;クツィアでもクッツィーでもなく ほか)
第2章 自伝、フィクション、真実(自伝、物語ること―『少年時代』『青年時代』『サマータイム』)
第3章 世界のなかのJ・M・クッツェー(驚異の自己改造プロジェクト―『ダスクランズ』;発禁をまぬがれた小説―検閲制度と『その国の奥で』 ほか)
第4章 北と南のパラダイム(「鯨」がいない―『三つの物語』『遅い男』『厄年日記』;よみがえるエリザベス―カレンとコステロ ほか)
第5章 ジョン・クッツェーとの時間(少年の本棚―詩と写真と哲学と;ヘンドリック・ヴィットボーイの日記 ほか)

J・M・クッツェー翻訳者によるクッツェーのガイド・ブック的な本だがクッツェーとの関係も面白い。それは著者がナカグロ(・)詩人と言っているように翻訳者になる前に詩を書いていて、最初は南アフリカの詩人の翻訳からスタートしてクッツェーを知ったという。クッツェーも小説家以前に詩人であった人でイギリスのモダニズム詩人やヨーロッパの浪漫派が好きだということで言葉に対してのこだわりが著者と通じるのかもしれない。それはクッツェーの出自がアフリカーンスの白人ということでイギリス(英語)に対しての複雑な感情があるのだ。

英語もアフリカーンスの英語で名前のクッツェー自体が発音がしにくかったりアフリカーンスの読みを確かめたりかなり苦労しているようだ。それも南アフリカが辺境にあり、辺境の文学としてポストコロニアルであるのは、サイードを通して大江健三郎との共通性も感じるが二人が対談した記憶がない。似たもの同士で仲が悪かったんだろうか?と考えてしまう(微妙な違いとか)。

著者の資料のデーターベース化とかも似ていると思う。あとベケットには鯨がいないという発言。大江健三郎の「空の怪物アグイー」は鯨じゃなかったっけ(カンガルーだった)。

二冊目の長編小説『その国の奥で』では、コンラッド『闇の奥』を踏まえて南アフリカの文芸警察の検閲制度を明らかにした本だという。これはぜひ読みたいと思った。あと『鉄の時代』を再読したいと思った。『少年時代・青年時代・サマータイム』の解説が勉強になった(最近読んでいたので)。


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