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シン・俳句レッスン172
芭蕉の風景
小澤實『芭蕉の風景上』から。
山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
京都から大津へ向かう道、旧暦三月上旬。春の花は華やかな桜や梅、山吹などがあるが、あえて足元のすみれに目が行く。それは山路だからであり「何やらゆかし」の思いにそうものだという。『万葉集』山部赤人の和歌も連想させる。
春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人
すみれの俳句といえば漱石が真っ先に思い浮かべるが、あまりいいとは思わなかったが。鎌倉の山路道なのかもしれない。
菫程な小さき人に生れたし 漱石
小さき人は妖精なのかもしれない。ケルト神話(イェイツとか)の詩に思いをはせたのかもしれない。
辛崎の松は花より朧にて 芭蕉
切れ字のない名句だとういう。でも二物衝撃なのだろう。「にて」が切れ字だという。朧を強調しているからか。「かな」でもいいかな。「にて」はより強い感じか。松と花(桜)。松は冬の季語で桜は春だが朧も春で春の勝ちなのか?この時代は季語という縛りはそれほどなかった。ただ季節感が大事だったのだ。「花より朧」が見事に松を春の季節にしている。また「朧」は昼の「霞」に対して夜の表現だという。「朧月」とか。夜の景なのか。月明かりだけなのかもしれない。
朧月松だけ花を持たせけり 宿仮
松だけを照らしたというか目が行ったのは朧月のせい。待つ人にもかけている。
杜若われに発句のおもひあり 芭蕉
杜若と言えば業平の和歌だった。
唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 在原業平
これは折句で五七五七七の頭をつなげると「かきつばた」になるのだった。芭蕉の方はなんのひねりもないようだが。
かきつばたきみを思いてつい一句 宿仮
「かきつ」まで。ばたは次の機会へ。というか俳諧だと次は「ばた」で繋いでほしいよな。
長谷川零余子『雑草』(一九二四年)
長谷川零余子は妻のほうが有名な長谷川かな女だった。
あるじよりかな女が見たし 濃山吹 原石鼎
虚子によると実直さだけが取り柄のような『雑草』とはまさにそのようでもあり、虚子に認められように一微動が感じられる句を作り続けたという。
夕虹を見る人もなし芦の花 長谷川零余子
「芦の花」は単なる雑草かと思っていたが立派な名前があった。「あし」が「悪し」を連想するから「よし」になったとかいい加減に名づけられたような。雑草の中の雑草という気がする。
岸本尚毅『生き方としての俳句: 句集鑑賞入門』。第一章は虚子俳句が日常性にあることをいい、第二章は実際に日常性を詠んだ句集を見ていく。
崖椿たくましくて花もなし 長谷川零余子
花の時期ではない椿を読む崖っぷち感は好きかも。
枯草に脂のしみや人を焼く 長谷川零余子
これはけっこう怖い句だ。
野見山朱鳥『曼珠沙華』(一九五〇年)
比喩の達人ということだ。まず一世一代の名句。
火を投げし如くに雲や朴の花 野見山朱鳥
夕焼けを火に喩えた句。それほどかな。
落椿投げて暖炉の火の上に 高浜虚子
虚子の方が先だな。
火の独楽を廻して椿瀬を流れ 野見山朱鳥
虚子の影響を感じさせる。『曼珠沙華』で虚子の序は
曩に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た 高浜虚子
と書かれたが二作目は茅舎じゃなかったかのような落胆ぶり。
舷のごとく濡れし芭蕉かな 川端茅舎
戦の如くに破れ芭蕉かな 野見山朱鳥
野見山朱鳥の句は大げさな表現で芭蕉のわび・さびが感じられない。茅舎の「舷(ふなばた)」の方が芭蕉に相応しい。
いちまいの皮のつつめる熟柿かな 野見山朱鳥
死なば入る大地に 罌粟を蒔きにけり 野見山朱鳥
イメージなのか?現実なら犯罪だった。『曼珠沙華』という句集で「曼珠沙華」がないのか?この「罌粟」を「曼珠沙華」でもいいと思うが凡人か。
上野泰『左介』(一九五〇年)
虚子の序に「西に朱鳥あり、東に泰がある」と書かれるほど期待され、虚子の六女を得ている(虚子ファミリーか)。彼も比喩の名手で茅舎・朱鳥・泰の比喩の比較が出ている。
舷のごとく濡れし芭蕉かな 川端茅舎
火を投げし如くに雲や朴の花 野見山朱鳥
尺蠖の 哭くが如くに立ち上り 泰
上野泰の句はいい。虚子は上野泰にぞっこんだったよである。
冷水を棒の如く呑みにけり 上野泰
去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子
上野泰が昭和二十四年で虚子は昭和二十五年で岸本尚毅は虚子が泰の句を呑見込んでしまったという。
白露に鏡の如き御空かな 茅舎
露乾く音をきかんとしづかなり 朱鳥
大きくて鏡の如き露のあり 泰
烈日の下に不思議の露を見し 虚子
それぞれの才能の上に虚子が立ちはだかるという。
病むといふ足枷をひき去年今年 上野泰
岸本尚毅は上野泰の明るさを読むが、虚子が病のように足枷になったのではと思ってしまう。
文芸選評
毎週土曜日にお送りしている『文芸選評』。今回は俳句で、テーマは「年用意」。選者は俳人・小林貴子さん。司会は石井かおるアナウンサーです。
小林貴子は「現代俳句」の動画で見た。
ぺらんぺらのタオルを選るも年用意
これの句が良かった。初句のオノマトペ。くたびれたタオルは確かにたまるな。大掃除の雑巾になっていくのか?人生のようだ。
年用意唐詩を吟じて昼の酒 宿仮
NHK俳句
選者:木暮陶句郎、ゲスト:須東潤一(詩画アーティスト)。題「湯豆腐」。ゲストが湯豆腐の名句で詩画をライブパフォーマンス。縄文時代の煮炊きを想像した湯豆腐とは。
季題「湯豆腐」だったんだが、選者もゲストもおでんのような感じだった。湯豆腐は簡単で安いのが魅力なのに料亭みたいなところで湯豆腐とか、縄文火焔土器の鍋でどういう神経なのかと思ってしまった。俳句のわび・さびもない。あまり学ぶところもなかったか。湯豆腐の俳句ぐらいか?
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
湯豆腐にうつくしき火の廻りけり 萩原麦草
~やが多くて「に」がこの句のポイントだという。「うつくしき」がいまいちな感じが。「火の廻りけり」が弱火を連想させるというのだが。「火が廻る」だと火事みたいんだ。「うつくしき火」がいいのか?
<兼題>堀田季何さん「薄氷(うすらい)」、西山睦さん「春セーター」~12月16日(月) 午後1時 締め切り~
<兼題>木暮陶句郎さん「梅」、高野ムツオさん「春泥(しゅんでい)」~1月6日(月) 午後1時 締め切り~