チンピラ性とヤクザ性は「仁義なき戦い」を生んだ
『わが封殺せしリリシズム』大島渚
加賀まりこが松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれる者たちは先輩映画監督の大家からチンピラ扱いされていたと発言していた。むしろそのことが映画界に新風を起こしていたのだ。
この本のタイトルとのなっている「わが封殺せしリリシズム」でのカンヌで大賞を取り、自身の学生時代に先輩に楯突いたチンピラ性について発言していた。それは同じ改革者でも増村保造を批評(批判)するのかと思ったが納得した(ゴダールやアンジェイ・ワイダの批評も)。あとで追悼文を書いて若気の至りだったような文章を載せているがテンションが低いと感じた。
激情の人大島渚が出ているのは批評家である斎藤龍風の追悼文であろう。大島渚の最初の映画『愛と希望の街』を褒め称えているがその鳩の象徴する捉え方を理解してないと言う。それでも映画は観客のもので、見てくれてなんぼなのだという意見なのである。批評家である斎藤龍風も大勢にそぐわない文章(批評)を書き続けたので、やがて干されてヤクザ映画の記事を書くようになったという。東映ヤクザ映画のヤクザ性はほとんど斎藤龍風自身のことだったのだろう。そういうヤクザ性に共感を寄せてく熱く語るのだ。彼のヤクザ性というものが大島渚のチンピラ性とマッチしていく。
第一章の批評は、あの時代ならではなのか?批評性が何よりも大切だった時代に、旧体制にかなり厳しいことも発言していた。増村保造批判はいいとして、山本富士子に対する厳しい意見はそれを「日本の退廃」とまで書いている。
そうかと思うと映画界の仕来りについて淡島千景の小言に神妙に頷いたり、美空ひばりの取り巻きとは(野次った青年を叩き出す取り巻きのいる会場)、それとは別にひばりの笑顔を立てたりするのだ。あまり論理が一貫しているとは思えないのだが、その感情の激しさが大島渚のエネルギーだったのだろう。後のエッセイの人物像(スケッチ)はほとんど論理というよりは叙情的な散文である。それがいいのだ。
第二章で自身の映画について自己分析しているのが興味深い。犯罪者と逃亡者と祭司。