ファン・ジョンウンは「キモチワルイ」とつぶやく
『ディディの傘』ファン・ジョンウン, 斎藤真理子訳
d
dとddという仮名の登場人物の話が語られる。それが本のタイトル『ディディの傘』ということなんだが、この二人以外は名前が表記されていて、二人だけがぼんやりしたあやふやな存在感みたいなことを書いている作品なのである。ただddは事故死したのだった。それはあまり詳しく書かれていないのだがバスから放り出されてというようにと。その関連する事故として「セウォル号沈没事故」が背景としてあり、より絶望を感じている一人取り残されたdはddが残したノイズ音楽(ヒップホップか?)を聴いているのである。その絶望。
何も言う必要がない
その解題は次の『何も言う必要がない』にあるように思える。韓国の民主化闘争がちょうど日本の学生運動と同じように、夏のソウル・オリンピック(1988)から冬の平昌オリンピック(2018)、日本だと東京オリンピック(1963)から札幌オリンピック(1972)なのだ。村上春樹が『1973年のピンボール』を書いたしらけ世代といわれるように、ファン・ジョンウンも諦念があったように思える。ただその傷跡は男である村上春樹とは違い女であるトラウマ(性的嫌がらせ)があった分トラウマがあるのだった。
そこから書かねばならなかったファン・ジョンウンの問題はフェミニズム的テーマも含んでいくのだ。それが同性愛の姉(小説家ファン・ジョンウンの分身か?)と子供がいる妹との対立点として『何も言う必要がない』が書かれたのだと思う。活動家である姉にしてみれば、妹の母と同じ世代の思考が理解できないのだが、子供という守るべき存在がある妹は姉のように決死の覚悟で革命など出来ないのだ。その中和として同棲相手のソ・スギョンがいる。それぞれの生き方が違うのだが同じ世界を共有している。
作家である私はバルト『小説の準備』の言葉で生きている。
それが様々の作家の読書体験としてあるのだが、目が悪くなったことで今まで文字で書かれた言葉が「墨字」だと気がつく。それは現実の声の世界とは違うのだ。現実は暴力の世界が支配している。それは沈黙の子供(妹の子供)がいる世界でもあるのだ。そのことに気がついたときに子供に向ける視線は明るいものになっていく。その一つが「セウォル号沈没事故」のあとの「キャンドル革命」のあり方が作家に死なない小説を書きたいと思わせたのだ。現実には世界は変わってないのだけど。
また絶望世代として日本のアニメが出てくるのが(例えばエヴァとか)同じ問題を共有しているのだと理解出来た。そして村上春樹の僕はシンジのように泣くが、ファン・ジョンウンの女たちは「キモチワルイ」とアスカのようにつぶやくのだった。