シン・俳句レッスン170
NHK俳句
「聖夜」ということで教会のオルガン弾きの人がゲスト。そう言えば以前はクリスマスの夜に「マタイ受難曲」とか聴いていた。ETVでもやっていたのだが、今年はどうなんだろう。
取り合わせの句がいいのか?
難しいな。クリスマスというイメージが強すぎるのか。
「俳句やろうぜ」
これ上手いな。阿吽で詠んだことあったが、ここまで詠めるとは感動する。
阿はテノールで吽はバスか?
締め切り日は間違っているような。多分、1月9日午後一時だと思う。NHKも間違えた!
芭蕉の風景
小澤實『芭蕉の風景上』から。
御廟は後醍醐天皇陵。長い年月をすぎてしのぶ草しか生えていないのは、後醍醐天皇は何を忍んで思うのか?という句で足利尊氏に敗れたのであった。その無念さを詠んだという。しのぶには芭蕉が偲ぶと後醍醐天皇が忍の意味があるという。
この句が取り合わせの最初だという。その御蔭で俳句が作りやすくなったのか?文句言われるのも多くなったかも。
あまり浮かばなかった。芭蕉を取り合わせにするなんて。
美濃の大垣で谷 木因の家に世話になったときの挨拶句だという。木因の発句は
「落葉川」は深川の翁(当時41歳)芭蕉と木因(木因は船問屋であり二人は同門で多度権現での俳諧)の伊勢の川に落ちる落葉を見立てて詠んでいる。
木の葉隠れの術。忍者説もある芭蕉を権現に喩えた。
「竹斎」というのは京の医者だったが薮医者で「天下の薮医者竹斎」と看板をかかげたという。その脇に狂句
「耆婆扁鵲」はインドの名医でありそれにかけたとのこと。『竹斎』は名古屋ゆかりの作品で有名だったとのこと。この芭蕉碑は名古屋TVの電波塔の下に置かれているという。
ネット電波の狂句。
生き方としての俳句
岸本尚毅『生き方としての俳句: 句集鑑賞入門』。最近は虚子派でも岸本尚毅だけは読んでみることにしている。虚子派でも論理的だと思うのだ。俳句は日常性が大切だということ。虚子は帰ってくる人の日常と非日常の出会いが面白いので、それを俳句というような。狂気の世界に行った人はどこまでも狂気なので我々は理解できない。そしてそうした狂気(自然)を感じさせつつ、人(人工なのか)である場所に戻って来るのが俳句だという。それで一番いいのが「客観写生」というあり方なんだ、と。わかったようなわからんような。虚子派が言うことだから、不都合な真実は隠蔽する。人が人工(自然破壊者)なのは納得するが、それでいいのか?というと、俳人は世界を変えることはできないが意識は変えることができるということなのか。理屈じゃないんだと。俳句スポーツ説もあるぐらいだから、多作多捨ということでもあるのだ。その前に先人の良句を少しでも観賞しておけということなのかもしれない。
だからと言って一日で俳句がうまくなるわけでもないが、考え方として参考になると思ったのは芭蕉とか放哉とか山頭火は放浪の狂人であるから、その世界に行ったまま帰ってこないという。
「枯野」が冬の季語でありながら芭蕉の辞世の句も感じさせる。その後ろの山に日が当たる場所があるという目前の風景を詠んだ句で、芭蕉の風狂から遠山(故郷か?)を詠んでいる写生句だという。虚子の『小諸百句』は戦時に疎開した作品をまとめたもので、そのなかに名句が多いという。
こんな句でいいんだよな。
不器男は二十六歳でなくなったので、この句で不器男の短い人生のかけがえのない一瞬だというのだが、それは作者の履歴があってこそで先の句も疎開したという履歴があるからこそ、感動させるのではないか?作家論的な読み方で作品論としては弱いと思う。今だったら膠着技法的なありきたりな句のような。
なんで「紺」なんだ。天上だからか?名句というのならそれをちゃんと説明してもらいたいよな。
そうか天上の紺は空の色だった。その紺と曼珠沙華の取り合わせか。
現代俳句
『現代俳句2024年12月号』かた「風を詠む」。句会にいかなかったので、ここで選句。
傍白は演劇の「わきぜりふ」と読んで独白のこと。後ろの乗客の独り言なのか空耳なのかわからないが、「極月」という取り合わせがいい。
「赤ポスト」は絵が思い浮かぶ。「開戦日」はカタカナ書きが緊張感がある。「日向ぼこ」は絵とユーモア。「寒卵」はコツンというオノマトペの効果。