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水俣学ということだろうか?

『チッソは私であった: 水俣病の思想』緒方正人 (河出文庫)

水俣病患者認定運動の最前線で闘った緒方は、なぜ、認定申請を取り下げ、加害者を赦したのか? 水俣病を「文明の罪」として背負い直した先に浮かび上がる真の救済を描いた伝説的名著、待望の文庫化。

土本典昭監督のドキュメンタリー映画『水俣一揆』を観に行くので読み始めた。映画と違うのはこの著者の緒方正人氏は水俣公害訴訟を取り下げたのだ。

最初のチッソ本社の訴訟までは罪の存在が明らかになっていくのだが、県や国の水俣病認定となるとシステムとしての訴訟になり個人は置き去りにされていくという。それはシステムを相手にしているので、上層部はいつでも変わっていく。その度に違う人間が出てきて最初からやり直さねばならない。

そこで金だけの保証問題になり、本心からの謝罪や未来に対しての展望が開けないという。そして司法にしてもシステムとして、最高裁まであるのだ(その裁判の長さや、被害者の高齢化問題に焦点を当てたのが原一男監督『水俣曼荼羅』)。訴える方も個人は弁護士の手法に従って、最終的には金での解決になる。

水俣訴訟でシステムの中で個人(人間)が置き去りにされる状況。それは人間を相手にするのではなく、システムを相手にした場合、その責任の所在はきわめてあやふやになっていく。そもそも社会が豊かになっていくための会社だったのである。

会社という言葉を逆から読むと社会となるようい水俣にもチッソで働く者もいれば市や県の職員もいて、そうした者同士が分断されていく。水俣病という病を出すと家が避けられていく。それは生活に直截的な影響を与える。働き場を無くしたり結婚できなかったり。

そうしたことをひっくるめて「水俣学」という元になった思想の一つかもしれない。「水俣」を公害病の地域としてみるのではなく、社会と自然の中で考える。水俣の危機は、世界の危機とも連動している。それは水俣が不知火海を中心とした生活圏であるという。海はどこまでも続いていく。

そこに石牟礼道子氏とも共感する思考があるのではないか。彼女とは27歳も年が離れているが弟のような関係だという。それは不知火海という自然が育んだ繋がりなのだ。魂とも言うのだが。

あと面白いことに「魂」が濁って「だましい」になると騙すようなものなので注意せよということだ。「大和魂」とか。



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