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大江健三郎の入門書でありガイド的な本
『大江健三郎 作家自身を語る』大江健三郎/著 、尾崎真理子/聞き手・構成 (新潮文庫)
なぜ大江作品には翻訳詩が重要な役割を果たすのでしょう? 女性が主人公の未発表探偵小説は現存するのですか?──世紀を越え、つねに時代の先頭に立つ小説家が、創作秘話、東日本大震災と原発事故、同時代作家との友情と確執など、正確な聞き取りに定評のあるジャーナリストに一年をかけ語り尽くした、対話による「自伝」。最新小説『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を巡るロング・インタヴューを増補。
目次
第1章 詩/初めての小説作品/卒業論文
作家生活五十年を目前にして
子供時代に発見した言葉の世界
伊丹十三との出会い
小説家を志す
渡辺一夫先生との交流
第2章 「奇妙な仕事」/初期短篇/『叫び声』/『ヒロシマ・ノート』/『個人的な体験』
芥川賞受賞のころ
小説はこのように書き始める
「戦後派」への畏れと違和感
「安保批判の会」「若い日本の会」
「セヴンティーン」を読んだ三島由紀夫の手紙
一九六三年 長男・光誕生
『個人的な体験』刊行当時の評
第3章 『万延元年のフットボール』/『みずから我が涙をぬぐいたまう日』/『洪水はわが魂に及び』/『同時代ゲーム』/『M/Tと森のフシギの物語』
故郷の中学校にて
一九六〇年の安保闘争
『同時代ゲーム』をいま読み返す
メキシコ滞在時の刺激
『洪水はわが魂に及び』を文壇はどう受け止めたか
『M/Tと森のフシギの物語』のリアリティー
第4章 『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』/『人生の親戚』/『静かな生活』/『治療塔』/『新しい人よ眼ざめよ』
女性が主役となった八〇年代
『新しい人よ眼ざめよ』とウィリアム・ブレイク
『静かな生活』の家庭像
父という存在
第5章 『懐かしい年への手紙』/『燃えあがる緑の木』三部作/『宙返り』
一九八七年 分水嶺となった年
詩の引用と翻訳をめぐる考察
祈りと文学
主題が出来事を予知する
第6章 「おかしな二人組(スウード・カツプル)」三部作/『二百年の子供』
ノーベル文学賞受賞の夜
長江古義人という語り手
『二百年の子供』のファンタジー
どこからがフィクションか
聖性と静かさ
自爆テロについて
若い小説家たちへ
第7章『美しいアナベル・リイ』/『水死』/『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』
震災ですべてが変わった
人生の主題としての「忍耐」
暴行という最大の恐怖
現代文学の担い手たちに
大江健三郎、106の質問に立ち向かう+α
あとがき
文庫版のためのあとがき
インタビュアーは『大江健三郎の「義」』で鋭い批評を書いた尾崎真理子。彼女は晩年の大江健三郎の編集者で「晩年の仕事」のある部分は伴走者と言ってもいいかもしれない。大江健三郎の小説の悲観的結末ながらたえず伴走者がいながらこの世界で小説を書き続けている。そんな作家の生い立ちから代表作のことや友人たちのことなど、大江健三郎の入門書というよりも作品を読んだ後で作者にその作品のことについて聞きたかったことなどを話しているような内容で充実している。特に晩年の仕事で、伊丹十三の自殺とサイードの死に対して作品を捧げたとか。
第1章
大江健三郎が書いた詩が出てくる。すでに『「雨の木」を聴く女たち』を予感させる詩だ。
雨のしずくに
景色が映っている
しずくの中に
別の世界がある
これは『伊勢物語』で出てくる和歌
白玉か なにぞと人の 問ひし時
露とこたへて 消えなましものを 在原業平
を連想する。
第2章
大江健三郎が学生時から小説を発表してきたが、絶えず自分は中心ではなく周辺にいたと思っていたこと。それはデビュー時は戦後派が台頭しており、その次の世代は新感覚派というよな作家が注目を浴びていた。それらの作家は遠藤周作にしろ安岡章太郎にしろ政治には深く関わらなかったのである。政治的に深く関わるのは戦後派であり、例えば大岡昇平や埴谷雄高などがいるが、彼らと大江健三郎は違う世代であり、一回りというよりも二世代ぐらい違っていたという。その下の世代がもはや政治的に冷めていた時期だったのだ。
その中で大江健三郎は『遅れてきた青年』の世代だったのである。「エグザイル」的という周縁性。それが「パレスチナ」のサイードとの共感なのであった。すでに自分の国は失われてしまったという「エグザイル」性から世界を批評できると感じていた。それが大江健三郎の文学であるならば、喪失の文学といえるかもしれない。
だからその頃の様々な政治的体験は、文学としての修業のような政治体験なのかもしれない。その中でヒロシマ・沖縄という現実問題にコミットしていく。それが大江文学の車輪となったのは疑い得ないだろう。大江健三郎の政治性という車輪と文学という車輪とさらに障がい者である息子という前輪が出来るのだが、この三輪の世界はどこまで行くのか?
第3章
大江健三郎が大江健三郎という文学を確かに確立して行った時代だろうか。ここからの大江健三郎の活躍は日本人でも外国文学並の大小説が書けるということだった。なによりもその物語世界と構想力。その最初のものが『万延元年のフットボール』だったのか?ある程度の年齢になると作家は歴史小説を書き始めるとか。それで偽史というような自分史から繋がる人物を歴史上に立たせていくような私小説的な物語が生まれてくる。直接的には山口昌男の人類学の影響だろうが柳田国男の影響があったと言うのが尾崎真理子『大江健三郎の「義」』だったのだ。ここではそのことに深く触れてはなかったが。
新潮文庫でこのへんの長編は世界文学を読むように読んだ記憶があった。『同時代ゲーム』が難解小説だということが、大江健三郎の作品スタイルが語り直しの人物再登場法であり
四国の伝承の物語はそれ以後の作品でも語られていく。フォークナーの系譜というようなマジックリアリズム小説なのは、メキシコ滞在時にマルケスやオクタビオ・パスなどラテン・アメリカの作家たちと知り合い交流を深めたのだった。『ペドロ・パラモ』を書いたファン・ルルフォとも偶然知り合ったとか。
第4章
長編時代が続き、『同時代ゲーム』で一通り偽史的な物語長編から、それらからこぼれ落ちていく女性を主人公にした短編連作小説の『「雨の木」を聴く女たち』を書き始める。
これは作家が女性から批判されるという批評的な作品ながら、作者の分身のようなマルカム・ラウリーの引用によって(大江健三郎は読みの作家でもある)物語を構築していくスリリングなストーリー。
私が最初に大江健三郎を読み始めたのもこの作品からで、フォークナーやラウリーの引用にときめいたものだった。作家や詩人の引用から物語世界を展開していくスタイルは後のブレイクの詩の読みを作品化した『新しい人よ眼ざめよ』に繋がっていく。
また伊丹十三監督によって映画化された『静かなる生活』もこの時代であり、このへんの作品は読みやすいかもしれない。
第5章
短編連作が続いてふたたび語り直しの長編作品は、かつての作品で亡くなった次世代の「新しい人」が再び試練を受ける小説になっている。それは生まれ変わりという魂の問題であり、仏教以前の日本古来からある神道的な信仰の問題なのだがそれがキリスト教のネオプラトニズムというような新興宗教の問題はその後のオウム真理教事件を予言したと言われた。
大江健三郎によればなるべく細部を綿密に書いていくと時代と重なっていくことはよくあることで、それは後に作家の周辺的事件もフィクションが現実を辿ってしまう(伊丹監督の自殺など)ことがあるという。それは作家が虚構の世界を構築しながら虚構の世界と現実との境界が曖昧になるということらしい。日本の私小説作家が虚構だと思いながらその主人公の人生をなぞっていく日本の私小説の問題。それは奥さんに言わせれば身の回りの人物がモデルなので必然とその外は描けないということらしい。奥さんが一番の批評家であるのは間違いなさそうだ。
第6章
実生活では奥さんと光さんが作家の伴走者なのだが、大江健三郎の作品も主人公と共に絶えず伴走者が現れては消えていく。それが物語は悲劇的展開なれど最後には希望の光を失わないアンチクライマックス(悲劇的カタルシスで解消しない)というスタイルだという。
また信仰に対しても無神論であることは明確にしているので、祈りの問題も信仰よりは文学の問題であるのだという。しかしけっして救われない世界であるからこそ、伴走者が絶えず現れるのかもしれない。その伴走者は同時代に生きる作家や友人たちなのだろう。晩年にはその友人たちも鬼籍に入っていく。その危機を乗り越えながら新たな伴走者と共に書き続けるしか大江健三郎の道はなかったのだ。ノーベル賞を取ったことで引退宣言を翻し晩年の仕事という作家最後の作品に臨んでいく。
第7章
『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』はサイードの死に対して彼に捧げた小説だという。
またノーベル賞以降の世界情勢や日本を取り巻く激変の時代に父の死についての小説『水死』を書く。それが最後の小説だと言われ続けながら晩年の仕事として『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を書き上げた。
また女性の悲劇的物語である『美しいアナベル・リイ』は暴力の問題、それはヒロシマから沖縄問題に通じていく日本国家の暴力性の問題として性的暴力が浮かび上がってくるという。それは大江健三郎の初期からあったテーマでもあった。