当たり前のことなんだけど、俳諧の開祖だった芭蕉。
『芭蕉百名言』山下一海 (角川ソフィア文庫)
山下一海という人は知らなかったのだが、俳人から芭蕉研究者になった人のようだ。それで句作の道も厳しいので断念せざる得なかったのか。ここに集められた芭蕉の言葉は、弟子たちによる聞き書きの言葉である。そこから見えてくるのは改革者としての厳しさと俳諧開祖者としての優しさなのだろうか?
例えば芭蕉が武士階級出身でそこから抜け出たこと。西行が武士から歌を極めるために出家して僧になったように芭蕉も僧になった。それも厳しい比叡山の修行を降りてきた法然のような、そこで念仏という解脱の手法を解く。俳諧が短歌や連歌から切り離された発句(俳句)になるには、比叡山に行くぐらいの厳しさがあったのだ。
そこから降りて親鸞や空也のような世俗の坊主になる。それを伝える芭蕉の言葉は直接的ではなく、弟子の言葉によって伝え聞くのは、例えばソクラテスを語ったプラトン哲学のような、孔子を語る弟子のような、仏陀を語る弟子のような言葉だ。
解説によるとこの百名言は、「1、俳諧の本質を巡って」「2、俳諧の態度をめぐって」「3 、俳諧の方法をめぐって」と分類される芸術論。それを伝える多数の弟子たちの言葉を研究者が解釈する。
「風雅の伝統」は、和歌の伝統から来ていること。その精神性は言葉を超越する言霊である。それが滑稽まで突き抜ける(そこにベケットの笑いを見出すのだが)。
「不易流行」という言葉の意味を知ることは何よりも実践していくことがなおのこと重要なのである。本来は同時に存在しない解答を禅問答のようなに解放させるのが芭蕉の俳句なのだ。
それは毎日のお経に似ている。まず信心が無ければ続かない。その言葉の積み重ねが、人から人へと介して歌となり世間に広まる。芭蕉の俳句も、一日にしてならずだった。例えばそこに辿り着くまでの『奥の細道』という修行の場が必要なのである。そこに到達するまでの進歩的な文学観は、自由自在を得ながら聖なるところから俗に帰る。その困難な道行きだった。