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「俳諧」と「俳句」は同じものなんだろうか?

『俳諧の詩学』川本皓嗣

芭蕉「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」.はたして田を植えたのは「誰」なのか?──こうした素朴な「意味」への問いは,「世界最短の詩」である俳句・俳諧を,広く「一般詩学」へ解放するきっかけとなる.季語や切字などの約束事を「当たり前」のこととせず,その前提から改めてこの「短詩型」を問い直す,画期的な俳諧論.


「風土」論

和辻哲郎の「風土論」があるが最新の研究ではそうではないらしいと川本皓嗣『俳諧の詩学』に出ていた。

それはイスラエルはヨーロッパの移民が多く、彼らの子孫はヨーロッパ的感性の四季を感じるという。例えばヨーロッパでは秋は寂しいものという概念があり豊穣というもう一方の概念にならないという。イスラエルの秋はまだ夏の暑さが厳しく樹木も葉を落とさないで、落葉の季節になるといきなり冬に入るというのだ。日本の気候も現在はそんな感じなのかと思う。長い残暑がありいきなり木枯らしが吹く冬になる。ただ俳句をやっていると実際の情景よりも二十四節気や季語的な区分によって、秋を表現していく。それは風土的なものより学習的なものだろうか。実際にリアリティよりも虚構的表現になるのはそういうことだと思う。すでに失われた自然なんだよな。そう思うと季語で難解漢字を使うこともありか?ただそこにノスタルジーを感じるのか?それとも新しい異世界なのか?。

例えば『万葉集』で秋を中心とした歌の多さから日本人の秋好きが言い立てられるが『源氏物語』ではそれを否定してみせた(紫の上の春贔屓)。そうした季節感の意識付けは、古今集が大きな役割を持つが、元を正せば中国の漢詩の影響があったのである。

『源氏物語』で「白文集」や「文選」の引用も多い。日本の秋は豊作という概念があるにもかかわらず寂しい秋の意識付けが貴族間で行われていたのだった。むしろ俳諧がそうした庶民の季節感を取り入れて、今の「悲秋」ばかりではなく、豊穣の秋という「食の秋」も意識付けられていく。

切れ字論

川本皓嗣『俳諧の詩学』から。著者はアメリカ文学(詩)と日本の俳句を比較して批評的エッセイを書いているのだが、季語のなりたちとかは面白かったが、同じような本を読んでいた。

それで「切れ字」論である。江戸時代の俳諧の連歌では発句は切れ字がなければいけないという指南書があり、最近の俳人は忘れているがそれが俳句の俳句たる所以であるというような。一度「切れ字」論として出した本の不備を指摘されて新「切れ字」論として展開しているのだが、そうしたセオリーは伝統俳句側の論理を強化するだけなので、どうかと思った。その批判に仁平勝のそういうセオリー化はマンネリズムを生み出す契機となって俳句を発展させないという意見があった。

現に川柳では切れ字の制約は無かった。まあ俳句と川柳を区分けするもんだと思えばいいのかもしれないが、そういう境界を設けることによって新しい試みがなされなく停滞していくのである。

なによりも文学は 生物 なまもの であるから文法的な枠組みとかに縛られないのである。それは古典としてもはや硬直した死体の幻想として、たとえばすでに滅びの姿で幽霊のように存在させるかだと思う。そのへんの美的価値は個人によって違う。

「三句放れ」と「句付け」

これらは連歌(俳諧)としてのセオリーであり、連歌が一人でやるものではないゲーム性を帯びたものだとしたら暗黙のルールとして言われてきたものだ。それは俳諧が連歌から始まったものとして、例えば発句は切れ字が必要だというのと同じなのである。川本皓嗣がなぜこれらにこだわるのかと思うと西洋詩との比較で、西欧では「私」なく詩を作るなど在り得なかったのだ(それが一神教と繋がって絶えず中心を求めるのかもしれない)。それが日本の短詩の特徴として無私(アニミズム)性として短歌・俳句の世界として一人で創作するのではなく、ゲームとして多数で創作する短詩としてのルールとして「三句放れ」は同じ連想をしない、「句付け」はその繋げる方法論として「掛詞」が用いられてきたということだった。それらは西洋詩にはあまり見られない特徴であり、日本の詩歌のゲーム性の中の一面だと思うのだ。それは俳諧と、正岡子規が始めた俳句との明確な区別。例えば正岡子規だったら、芭蕉よりも蕪村の重要性は私性を取り入れることにあったと思える。だからそれをまた俳諧の世界まで戻してあえてやらなければならないということではないと思うが、けっこう伝統俳句の中にはそうした俳諧的なものが残っているのかもしれない。

子規の「写生」

子規の「写生」が誤解を受けているという話はよく聞くが実際には複雑すぎてよくわからない。それは子規が短命に終わったので十分説明がなされなかったことも加えて後の理解も中途半端だったようだ。子規の実績としては誰よりもそれ以前の俳諧を読んでいて革新的な手法として「写生」という方法論を打ち立てたということだ。これは絵画論であり、まず「写生」がスケッチというデッサンであるならば「写実」という肉付けが意匠(個性)であるということらしい。だからスケッチとのしての「写生」はどんどんやるべきであるし、それが完成体でもない。そこから肉付けとして油絵のように絵の具を塗りたくっていくのだ。だから「写生」以前で終わっている俳句はたんなるスケッチであって、そこに上手い下手はあるかもしれないがそれが完成体でもないのだ。

そう思うと線としてよりも色の重みが増してくる。その部分に感性的なイメージがあるわけで、実際に線をはみ出る「写実」もありうるわけだった。それが、例えばゴッホにようにセザンヌように個性として現れるのだろう。それは子規の俳句の方法論であって、それが完成体というのでもなかった。

『おくのほそ道』

『おくのほそ道』の冒頭は比喩が使われているのだが、それは李白からの引用であるが本歌取りのように李白の「時間は束の間旅人」というのを「人生は旅」というのに置き換える。それは李白の思想がネガティブな人の一生なんて一瞬のことであっという間に過ぎてしまうのだから酒でも飲んで楽しもうということに対して、芭蕉は人生そのものが旅であるとする。それは次の言葉で馬子や船頭や魚や鳥も行き交う者すべてが旅人であるとインテリと庶民や下等の動物の間に差をもうけない。これが諧謔精神であり、それが李白と切れているから芭蕉特有の人生論となっている。つまり『おくのほそ道』その俳文そのものが俳諧精神の文体であるという。芭蕉が李白の引用から対句させた俳諧的世界の道だという。

芭蕉を永遠の旅人と解釈されるのはそういうことだった。芭蕉の「旅」という隠喩とのことだった。

芭蕉の「不易流行」とボードレールの「モダニズム」

著者は比較文学として芭蕉の「流行」をボードレールの「モダニズム」に見る。それは芭蕉もボードレールも一瞬の決定的瞬間の美を見に逃さずそれが「不易」=「普遍」的なものになる。ボードレールのそれは象徴という古典伝統世界の美であり、芭蕉も和歌の伝統の中に普遍的象徴を見出すのだ。そのための方法論として芭蕉の旅がありボードレールは都市の徘徊があるという。近代の俳人がわざわざ芭蕉のように和歌の景勝地を求めなくても吟行という街歩きはボードレールの都市の徘徊(ベンヤミンの「パッサージュ」)なのかもしれない。

ボードレールのモダニズムは過去の芸術作品の美の喪失の抜け殻的な現在の美という姿をみいだそうとする、神話的世界の復活なのである。それは近代という産業資本主義が祀り去ったものの姿であり暗渠の地下水なのだ。芭蕉も和歌というかつての雅な世界の喪失とそこにある自然の中にある地下水脈を探ろうとしていた。それが「不易流行」のイメージであり、普遍と同時に時間の流れの中に決定的瞬間という美を見出すのだ。芭蕉が流行の中で行き交う人のファッションに注目していたと初めて知った。

つぎの小袖 たきもの売りの古風也 芭蕉
非蔵人なるひとのきく畑

そういう野次馬性は変化を感じ取ること。

五月雨に にほの浮巣を見に行かむ 芭蕉

それは童心の新しき好奇心を忘れない心だった。

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