美意識=死生観なのか?
『短歌と日本人〈2〉日本的感性と短歌』佐佐木幸綱(編)
座談会「日本人・こころ・恋歌」…阿久悠・夏石番矢・俵万智・佐佐木幸綱
歌人二人に俳人と作詞家の対談。阿久悠が入っているから面白い。ただ最近の若い奴らはという話になりがちだった。
阿久悠が言うには最近の歌にはロックのようなフォルテでがなり立てる歌が多く、ピアニシモの歌がないという。なるほどそれは言えているかも。ピアニシモで歌う歌手って誰かいるだろうかと思うと八代亜紀とか演歌系になるのかな。中森明菜はそうかもしれない。
中森明菜のイメージが少女Aの不良ぶっている女子から人気スター(マッチ)とすったもんだで捨てられたからそのへんの女心がでるのかな。この当時に出てきたアイドルは逆の元気のいい女の子の歌だったような。今もアイドルのイメージはそうしたもので陰ある女なんて求めない。
それは俵万智の『サラダ記念日』が中年男に人気だったというのもわかるような気がする。一巻で富岡多恵子が『サラダ記念日』に文句を言っていたのは女歌の部分であったようだ。俵万智はあまり自覚してないが、佐佐木幸綱との関係は教授と女子学生という師弟関係なのだ。そう言えば佐佐木幸綱が男歌とか女歌をいい出したのこの頃かもしれない。
少なくとも俳句には男歌とか女歌という明確な区別がないのは、私を滅私するからか。でも台所俳句というのがあるな。そうか虚子が育てようとしたのは女俳句の世界だったのかもしれない。全体的に男社会という気がする。
意外にも中世の和歌にはあまり男歌女歌を区別することはなかったという。男も女に成り代わって歌ったり(題詠)、悲しみの感情を発露したからか?そうだ、天皇は恋の歌を歌うときは女になると言っていたのはそういうことなのかもしれない。男がつくる女歌は男のイメージだからな。今の学生に男の俳句を作れというと女子高生ばかりになるというのが興味深い。おたくアニメの世界で納得というか、ほとんどそういう世界なんで母性的なミサトタイプと綾波の傷ついた従順タイプか?ほとんどエヴァンゲリオンなのか?男の夢は理想の恋人のアンドロイドを作ることかもしれない(『未来のイヴ』とか)。
だからテレサ・テンとか都はるみは女歌を歌っていたのかもしれない。男歌とか女歌とか短歌で出てきたときは驚いたのだが、それは演歌には確かにあった。坂本冬美は男歌が得意だとか。そのイメージを変えたのが「夜桜お七」なのだが(石川さゆりが先行イメージか、「津軽海峡冬景色」とか)、女歌でも力強い歌なんだと思う。女歌の演歌はやはり八代亜紀だったのかな。だからトラックドライバーに好かれる?
都はるみは気に入らない歌だと普段着の衣装で出てくるという話が面白い。高い着物を着て決めているときは、歌も気に入ってやる気があるのだとか。演歌歌手ってそうかもしれないな。ステージ衣装に金かけるのは紅白とかあるから。これも男歌・女歌の世界だったか。今はもう馴染まなくなっている時代なのか?いや、だから紅白がいいという日本人も多いのだろう。
永原孝道「三十一音への亡命ー危機のヴィジョンとしての短歌の言葉ー」
俳句がHIKUとして世界的に認知されているのに短歌は認知されていない。それは俳句が十七文字の最短詩であるのに対して短歌は三十一文字で最短詩とは言えないからだった。考えてみれば俳句は短歌から七七を取っただけなのに短詩ということだけで驚きを持って海外では迎えられているのだ。そこには季語とか(厳密な)文字数なんかどうでもよくて(海外では三行詩)、短詩であることの利便性、つまり誰でも何処でも気楽に作れるということではないだろうか?だから、ロシアのウクライナ侵攻で俳句として注目を浴びたのもそんなところだろうか?
HIKUは俳句から独立し、むしろゲームとして相互感情の交感ということで(ウクライナでもロシア人との交流があったと言ったが、それがナショナリズムHIKUになるのはNHK特集でやっていた)。そして短歌より好まれたのであり、短歌がTANKAとして進化出来なかったのは小野十三郎の言う「短歌的叙情」にあったのかもしれない。明治以来、日本での短歌と詩の関係を振り返るならばベクトルは正反対だという。
この定義から思い出すのは塚本邦雄の短歌だった。
塚本邦雄の短歌は日本語への亡命だったのか(旧字旧仮名の世界。それが和歌の後鳥羽院の『新古今集』の憧れなのだ)。そんな作家にリトアニアから亡命した作家で、亡命先のNYでマイナーなリトアニア語で詩を描き続けた男としてジョナス・メカスがいるという。
冒頭の「ヨーロッパ」を「日本」に置き換えると塚本邦雄か?
まるで短歌のような詩だった。市村弘正『敗北の二十世紀』の「残された言葉」に出てきた詩であるという。リトルニアの国民詩人はむしろ言語の詩よりもカメラ(映像作家)で有名だった。そのときに彼が映したカメラアイは現実の断片を撮り続けていた(NYの木々や公園日記)。小さな黒い箱で。それは正岡子規が「写生」という病者の視線から切り取った短歌ではなかったのか?という。
病者のズームアップで捉えた「藤の花ぶさ」。「写生」とは危機のヴィジョンに遭遇した正岡子規の、「短歌滅亡論」の正岡子規が見出したものであった。そのヴィジョンは斎藤茂吉に受け継がれていく。
斎藤茂吉の写生を象徴詩だと見出したのが塚本邦雄だった。
それは正岡子規が『歌よみに与える書』で主張したものだった。『古今集』批判は『万葉集』讃歌であるだけでなく、『新古今集』の実朝の発見だった。
当時の最新のモードは、サンボリズム(象徴)を見るものとしての「見者」詩人だった。それは小林秀雄がランボーに見出した「見者」としての資質を実朝に重ね合わせていたからだ。一つのヴィジョンを詠うこと。正岡子規の写生はまさにそのようなものとして存在した。
それは俊成が歌の危機としてなお歌をつらのこうとする姿勢であった。
そして、それは後鳥羽院の歌と共鳴していくのだった。
古橋信孝「短歌形式と日本人」
桑原武夫「第二芸術論」は俳句よりも短歌世界では、だいぶ影響があったようで、古来からある「短歌形式(七五調)」は奴隷の旋律とか言われた。その反動(反省)として戦後短歌は、前衛短歌運動や批評でも、内野光子『短歌と天皇制』など短歌イデオローグの問題として議論された。
だがその「天皇制」も一般大衆にとって「天皇制」とは何かを追求したものではなく、ただ古い思想であることだけで、新しい(アメリカの)民主主義で一色されてしまうことに危惧感があるという。それは、戦時に翼賛体制になったことと変わらないことなのではないか?吉本隆明の大衆批判とかそういうことなのだが、例えば湾岸戦争が起きると反イスラムと戦争反対ばかりの歌になることの戒めとして、それはロシアのウクライナ侵攻でもナショナリズムを詠む歌人は多い。それはガザのときはどうだったのか?またそれが我々の日常に取って、ただ情報として消費されるだけのものではないのかとか、いろいろな問題を孕んでいるわけだが、ここでは大雑把すぎる論理でよくわからなかった。
「天皇制」の聖なる歌と共にもう一方では俗の歌もあったということなのだと思う。短歌を詠むことはどうしても古典主義に立つことであるという論理でまとめられていいのかとも思う。
島田修三「神女を演ずる男たち」
万葉集などに男性歌人が目上の上司に宴会の贈答する歌などに双方で女歌として表現することが多いという。
親密さを表す「背子」という言葉は本来女性から男性への言葉であったという。さらに「珠を貫(ぬ)かさね」は性的な意味があるという。珠(腕輪)を貫通させよとか?
宴会の歌が上司との上下関係の中で自身を女や子供に仮託するときそこに明らかに服従する意味合いがあったのだ。それがジェンダーの捻れとして、男が詠う女歌という宴会芸として歌があった。
古代儀礼の研究によって短歌が歌垣から始まったとされ、その時に女性の贈答歌は性的な誘いから身をかわす女歌の発想や手法があった。
神事から始まった歌は神としての男に仕えることで豊穣を約束した(女が負けること)。
神婚における歌舞・宴会と言った服従的な儀礼が贈答歌に受け継がれて「おんな歌」という独特の世界を形作って行った。
無常観の伝統と現代ー短歌と死生観ー
橋本治がむさ苦しい吉田兼好『徒然草』よりも清少納言『枕草子』を好むというのは、アンチ小林秀雄だからからもしれない。ここでいう「無常観」とは小林秀雄の「無常といふ事」を言い表している。それが短歌の伝統である業平から西行・実朝・長明・兼好と隠者思想を形作っていく。
それは死生観と言ってもよく、例えばそれは近代短歌でも正岡子規から斎藤茂吉まで受け継がれているという。そのような無常観=美意識が死の観念としての彼岸を詠む歌とともに、俵万智のような現実を詠む歌人に分かれるのだろうか?
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