茂吉短歌
この歌は「バイアス湾敵前上陸」のニュース映画を見て詠まれたのだが、評では戦時の映画にもかかわらず自然を読み上げて素晴らしいと評された。そのことに批判する批評もあったのだが、斎藤茂吉は短歌の鑑賞は素人には不可能なことであると恫喝したという。しかし、その後の詞書では「相模の海」に変えていたのである。そのことを問う者はいない。
模範短歌
「午下がり」の漢字が珍しい。穂村弘の短歌「シャボンまみれの猫が逃げ出す午下がり永遠なんてどこにも無いさ」はこの歌を踏まえているのだろうな。
「レンズをみがく」のはスピノザだったか。そして()内は存在論(哲学)的。
「母と二人」は伝統臭さを感じてしまう。
同じ佐藤ならこっちの歌のほうが好きだ。佐藤の中で一番好きかもしれない。
「スニーカー」の歌は、十代の若さゆえにスニーカーが似合うという選評。それが破れても美しいのである。おっさんのスニーカーが破れても貧乏臭いのである。ただゴッホの靴はおっさんの靴のような気がする。
「PARCO」の歌は渋谷を知るもの人限定だろうな。「三基を墓標」と譬えるところが現代的。今「PARCO」はあるのか?
今ひとつしかないよな。かつて文化の中心地だったものの姿を象徴している。
「島田修三」の歌は「島田修三」を知らないとそれほど意味のある歌とも思えない。ただここでは歌人の師匠だと伺えることで、「見ろ」という「写生」のことを言っているのかと思う。内輪ネタだが歌人の本質を突いているのではないか?
「みどりご」の歌は下の句の「あさがほ」との対比。「北半球」と言ってしまう誇大表現。
「ばってん」の視覚効果の歌。その「ばってん」は宗教的な祈りを暗示するという解説。空の安全祈願の歌という解説だった。
「混葬」の歌は、原爆の歌だという。そこまでは初読では読めない。作者の経歴(被爆体験者)か詞書があって、その背景を知って初めて奥深さを感じる歌だ。「原爆詠」ということだった。
「けだもの」といいつつ、「恋の歌」なのだ。短歌の王道だった。
藤田湘子『新版 20集俳句入門』
第18集「俳句を上手に作る法」
季語を離して使う。季語を修飾しても意味はない。季語に使われてはいけない。季語のほうを見て作句しない。
ストップモーション。
「うたの日」お題
こんなもんか。「ぼろぼろな駝鳥」は高村光太郎のパクリだった。
これはいいかもしれないが「うたの日」には出したくない。
アイラー聴こう。
とりあえずこれを投稿。
散文だけ、このイメージを詩的に。
ちょっと休憩。
結果
文句なしのどんまいだった。
けっこう不満は溜まっているのだと思う。それを歌で表現できたのだから良しとしなければ。異質性はダントツだと思う。それだけ自由だということだ。ちょっと今日は実験的すぎたが、韻律の研究だと思えばそれほどショックはない。まだ自分の歌が完成されていないのだから、余地はあるということだ。
だいたいトップはこんな感じだから。
懐かしさではなく、物珍しさであるレコード。
戯画短歌だけどトップになった。
これも戯画短歌だが上手いかもしれない。「天国行き荷物検査」とはなんだ?