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長谷川龍生のイタコ詩は憑依する「もの」の世界

『長谷川龍生詩集』 (現代詩文庫 )

現代詩文庫が現代詩を研究するのには一番適しているのか?1968年創刊から日本を代表する現代詩人たちで第一期・第二期を合わせ約290冊ということだった。第二期は重複するから、とりあえず第一期の100人は見ておこう。

長谷川龍生は、寺山修司『戦後詩 ユリシーズの不在』で寺山修司から好意的に取り上げられた詩「恐山」がけっこう気に入ったので読んでみたくなったのだ。なにより「恐山」はその巫女(イタコ)的憑依する詩であり、言霊性を強く感じる詩だったのだ。それは「きみ」という二人称による呼びかけ、「きみも、他人も、恐山!」という繰り返される呪文のようなフレーズ。そこに鷲が舞い降りてきて(ハゲワシか?)鷲=われ(わし)という分身をよびだすのである。恐山が心的風景の中に自我の境界を超えて分身であるコトバ=我を呼び出すというけっこうわかりやすい構図だと思う。

まず長谷川龍生が象徴詩から出発していること。「パウロウの鶴」は「鶴」がボードレール「信天翁」のような象徴性を示している。鳥は羽ばたくものとして、象徴にし易いのだと思う。ポーの「大鴉」とかの系譜である。それに小野十三郎の「もの」の概念があるという。それは従来の日本の抒情詩に重ねる「もの」ではなく、理知的な「もの」の概念であるというのだが、それが「象徴」ということなんだろうと思うのだ。

それは長谷川龍生の「マラルメ」論によって明らかにされているのだが、けっこうこの辺の詩論は難しい。もの=サンボリズム(象徴)ということだけを頭に入れとけばいいのかもしれない。それは日本の抒情詩に寄り添わない詩形であり詩の方法論である。日本の抒情詩が戦時中に翼賛体制に利用されたということがあり、その批評としての小野十三郎の「もの」の理論なのであろう。ほとんどサルトル『存在と無』あたりの実存主義的な思考であると思う。

1868年頃がちょうどそのような時代であり、たぶんにそういう時代の影響を受けている詩人ではあると思う。そこにニヒリズムの克服とか精神性とか語っているのだが、寺山修司が語っていた戦後世代(「荒地」派)の批判というよりは継承の批評なのではないかと思うのだ。

その部分で湿り気な戦後世代よりはドライな感性を示しているのかもしれない。それは自閉症という自我を客観的に外から観察していくことなのだろうか。そこにユーモアというか喜劇的なものがあるような気がする。

その過程が散文と韻文によって描かれているのが長編詩「虎」なのかもしれない。散文は虚構の私小説のようにある精神病者の話から、「虎」が象徴として現れてくる詩になるのだが、中島敦『李陵』のような虎だ。『李陵』の世界が現代の電車の中で「虎」が象徴的に現れるというような詩になっている。「虎よ」という呼びかけとそれが「恐怖王」の使者であり勇者であるという現れが「虎」という詩だった。

「キノコのアイディア」は幻覚的なマジックマッシュルームを食べたような詩だろうか?そういう幻覚性は薬物やアルコールのような酩酊するものではなくコトバとして作者のなかではコントロールしているのだろう。これは散文詩なのが、理性によって書かれたものであるかのようだった。そしてそれはあなたという二人称で呼びかける作者が詩の外にいるのだ。

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