シン・俳句レッスン46
ホットに替わった自販機。日記で詠んだ一句。
晩秋の寒さが欲しい。
NHKBS「“奥の細道”への道〜松尾芭蕉 五・七・五の革命〜」を観る。芭蕉の隠密説とか面白い。単に旅をしていたのではなく何か目的を持っていたと。でも芭蕉はそういう権力に縛られないで気ままに好きな旅をしていたと考えたいよな。空は違うんだろうけど。
NHK「奥の細道」が正しい表記ではないな?「おくのほそ道」だろうが。まあ天下のNHKだって間違うことはあるのだ。それに「奥の細道」の方が通りがいいのかもしれない。
「おくのほそ道」について。最初の「行く春や」は漢詩的で重いのだそうだ。それが最後の「行く秋ぞ」は軽みになっているとか。芭蕉の表現をやっているが今回は比較表現だった。
芭蕉の比較表現
桃は花なんだろうな。果物を想像しがちだが。水仙が白いとは、そんなに白いとも思わないが。匂いだから白いのか?白い匂いって想像付かないよな。むしろ無臭とか病院の匂いとか。
山里に対して市中が省略されている。ここまでだった。「芭蕉の仮定表現」はよくわからん。単に表現方法を述べてもどう新しいのかよくわからない。TVでの漱石の言葉に芭蕉はレトリックを使って想像世界を描いていくというようなことを言っていたが。レトリックは大事だとは思うが、この本の芭蕉のレトリックはいまいちわかりにくい。
前衛俳句の軌跡
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から「前衛俳句の軌跡」。このへん好きそうだ。と思ったら川名大は雑多な現象に翻弄されるだけで実りがないというのが実情だといいう。
金子兜太の社会性俳句「造形俳句」の議論中心だが。あまり「前衛俳句」という感じでもないのは新興俳句を超えてないような。また高柳重信の行分け俳句の新しさもない感じだが。そんなところの議論だったのだろうか?
金子兜太「造形俳句」への批判。中村草田男は天敵だったのか?創造することで造形なんてやっているだから今更言うかみたいなことだった。それをあえて指摘するのがコロンブスの卵的なんじゃないという。よくわからんけど、造形俳句という言葉を与えてことで方向性は見えてくるよな。つまり単なる写生俳句ではないと。
しかしこの後に抽象俳句やら難解俳句やらが出てきてなんやねんとことになって、もう前衛俳句でいいんじゃね?ということになるのだが、その前衛も中衛もあるし後衛もあるしというやつがいて結局伝統俳句か違うかみたいな元に戻るようなややこしい話だった。そこで出てきたのがなんでもOKな坪内稔典なのか?
ここで重要なのはやはり金子兜太なんだろう。金子兜太の批評を受けて新たな戦後派世代からポスト戦後派世代へと受け継がれていくのが『現代俳句入門』批評する坪内稔典の繋がりかもしれない。
百句燦燦
塚本邦雄『百句燦燦』から。
「鶴の本」を『夕鶴』というような浪漫ではなく大型図鑑の理科系本だという。それと対を成す淘汰のバーバリズムは計算された「造形俳句」だというのだが。他に「無神の旅あかつき岬をマッチで燃し」を愛唱歌とする(どことなく葛原妙子に似ているような)。
淘汰の暴力性の言葉「朝顔が降る」には繊細な感性が潜んでいるというような。それは彼岸性なのか?遠国は曼荼羅というような。
中七「憶ひ出でにし」が妙技だというのだが、これは否定表現だからか?だからどこまでも海月(人の名)が漂う比喩になるのだ。「憶ひ出でたる」だと海月がその場で浮かんで終わり。また文末の「かな」も詠嘆ではないという。そこはよくわからん。
「仁王」は「金剛力士」であり、運慶像に見られるように筋肉隆々であるのが寺の入り口を守る御神像であるのだが、飢餓に襲われる寒村の吹きさらしの仁王像なのか、貧弱ながらも凄みは仁王だった。仁王が作者と重なる。
下村槐太は「北斎忌」の鮮やかな一句が印象深い俳人だが、これは難解句だった。「彳(た)つ」という漢字をどこで知るのだろう。今回初めて見る漢字だった。
「夕暮の凍てゆくものの中に彳つ」(高木晴子)
「起きぬけのいのち熱かり蝌蚪に彳つ 」(神蔵器)
「白鷺に子ありて秋の水に彳つ」(誓子) etc. 俳句の世界では「彳つ(た-つ)」がよく使われているという。
「阿難」は釈迦の弟子。釈迦は沙羅双樹に佇んでいたが、弟子の阿難は百日紅だというのだろうか?いつまでも煩悩が消えない感じなのかもしれない。諧謔のある句でいいのだと思う。阿難に作者を重ねているように思える。
三婆を詠む三鬼の構図だけでも面白い。ケタケタ笑っているような感じが「わらへりき」にはある。
中村草田男は金子兜太の天敵であり人間探求派。むらさきになりゆくのは、自分自身なのだろうな。「むらさき」と言ってしまうのが草田男なのか?和歌なら高貴な色だが、ここではむしろ侘び・寂びの世界である。それは「墓に詣るのみ」という言葉が後にあるからだ。「むらさき」のイメージを草田男流の解釈なのだろうか?「むらさき」を探求したら「墓に詣るのみ」と出てきたのか?
子煩悩の微笑ましい句のように思えるが、詞書に「齢三十。僕の荒天は尚続くのであろう」とあるから、そういう句ではないのだろう。「嬰児の赤き舌」は鬼の子のようにも感じられる。そういう世界へ行ってさっと戻ってくることかもしれない。
加藤楸邨も草田男と同じ人間探求派だから人生の厳しさを読んでいるのだろう。「負ひ来」という字足らずの切れが和歌の七七との決別の感情なのだという。季語は鵙なのだが、声よりも「金色の日」という情景は生贄なのだろう。
「〈発句〉の変貌ー切字論・序説」仁平勝
「個の凍結とその時代ー昭和四〇年代の問題」宇多喜代子
「〈私〉の居ない風景」足立悦男
は前回見ての通り。
今日は続けて、
「〈発句〉の変貌ー切字論・序説」仁平勝
「戦後俳句と西洋詩の交差ー高柳重信と翻訳詩」を見ていく。
俳句を俳諧的付句としての発句から、独立して「俳句」に成っていったのは正岡子規の近代化を踏まえてなのだが、そこ子規の系譜を継ぐと宣言する坪内稔典における「発句形式」についてラジカル(根源的)な問いとして「連歌」からの切れの空白は日本語表現の根底にある表現の型(伝統)を乗り越えようとするものであり、季語に於ける自然の成り立ちよりも切れによる自我発露の方が重要であるという。それは金子兜太の「造形俳句」を受け継ぐものであるかもしれない。
それは良基『連理秘抄』のドグマ。
これは和歌的な雅な世界から江戸の滑稽さやイロニーと言ったブルジョアジーの台頭する世界であった。個の確立である。
しかし山本健吉は様式美として切字を求めるあまり、美学的観点から述べており、その後にはマンネリズムに陥っていく。
結局マンネリズムを否定しながら、そこに俳句固有の型があると見るのだ。これは俳句入門書のハウツー本にありがちなことではあるが、そこから抜け出せないでいつまでも型がついて廻るのだ。
山本健吉が「かな」の形式化でないとしての例で「軽く言い取って心を残さぬ心にくい『かな』である」とする凡兆の句は滑稽さを呼応しながらのイロニーである。それは万太郎の「かな」とは明らかに違うものなのだ。
万太郎の「かな」は詠嘆を基調としているのだ。山本健吉は定形の美学的形式化に囚われている。例えば現代俳句の「かな」を用いた俳句には彼の理論は通用しない。
「戦後俳句と西洋詩の交差ー高柳重信と翻訳詩」夏石番矢
日本の近代詩で翻訳詩が新しい日本語を生み出し、それが詩的言語として流用されていく。堀口大学『月下の一群』はそうした翻訳詩である。その中にフランス象徴詩人グーグルモン『水車』は特に当時愛唱された。
そのグルーモンの詩から高柳重信の作品が生み出される。
高柳重信は堀口大学『月下の一群』を病弱な青春時代に読み(特に気に入ったものは◯印が付けられていたいう)。それを自身の境遇に置き換えていった。『水車」はシオモンといは「シモーヌ」という女子との恋愛詩に繋がるという。高柳重信が煩悶する青春時代にあって影響されてもおかしくはない。
さらに同じ頃の作品では「谷」にポーの「不安の谷」(日夏耿之介「幽谷不安」)の影響も感じさせるという。
NHK俳句
これも兼題をやって終わりだな。