シン・短歌レッス115
王朝百首
塚本邦雄『王朝百首』から。藤原実定
桜の儚さを詠んだ名歌とされる。二句切れは『新古今』時代の特徴。「はかなさをほかにもいはじさくらばなさきて」のH音とS音が「はかなさ」を醸し出しているとする。
西行
目崎徳衛『西行』から「佐藤義清 の公私の生活」。西行は北面の武士として鳥羽法皇に使えていたのだが、それは文武に優れて美貌でなければ鳥羽法皇の閨などに入れないのである。そういう若人だったのだが、それが不満でもあったのだろう。また同時代の鴨長明や文覚などの証言から妻娘がいながら出家したのは事実であろうということだ。きわめて通常の生き方をしていたのに突然の出家の原因は何だったのだろう?新仏を求めるよりも武士という誰かに仕えるのがたまらなく嫌だったのだろうと思われる。何よりも自由であることが一番であったのだろう。それが自然のままに花と月を愛でた西行像なのかもしれない。
昭和遠近
上野博物館で回虫の標本を見たことがあるがあんな虫が人の中に入っていたなんて今では考えれらいようなことだが、戦後はそういうこともあったのだ。それよりもマリア・カラスは回虫を入れて減量に成功したとか、回虫ダイエットなんてあったのだ。
回虫の研究者という人で飼っている人の話も聞いたことがあった。
明治時代の作家も結核で早逝したものが多い。それはいいのだが、岡井隆の歌の意味がわからん。梅雨時期に裸足で夜道を散歩したから結核になったということか?これが短歌なんのか?この本の短歌はあまり面白くないな。
詩歌と芸能の身体感覚
『短歌と日本人4 詩歌と芸能の身体感覚』富岡多恵子編から、「もうひとつの短歌ワールド」山口文憲。
70年代に活躍したコラム・エッセイスト。まったく知らなかった。このペンネームで女性だとは。男に見せかけていたのかな?本名だった。
短歌の世界を新興宗教に喩え、結社の長が読む三十一文字の言葉を会員がありがたく頂くというような。相撲中継でも野球でもニュース報道はなおさら。素人目にはそんな風に見えるのが現状だろうか。今は結社ではなく、歌人アイドルがという感じなのかな。三十一文字が言霊となるのだから、それもあながち間違いではないのかもしれない。
『詩歌と芸能の身体感覚』多和田葉子「ドイツから和歌に」を読んでいて、鶯が春を告げるというのはおかしいというドイツ感覚の多和田葉子が書いていて、すでに俳句脳、短歌脳になっているでどこがおかしいのか理解するのが大変なんだった。例えばこの和歌の場合春が過ぎるのを先取りして涙ぐんでいるのである。たぶんそこに「形見」とあるから別れた人や死んだ人の思い出があるかもと読み込むのだが、多和田葉子に言わせると「この世にパリという町がなかったらどんなにいいだろう、いつまた行けるだろうと気を揉む必要がないから」というようなことと同じだというのである。多和田葉子が取り上げたのは梅の例ではなく「鶯」の歌が上げられているのだが壬生忠岑(みぶただみねと読めること自体『古今集』モードになっている)のうた。
鶯が鳴けば春なのか?という話なのである。どんなに寒くても鶯が鳴けば春を告げる。それは個人的な感想ではないかというのだ。いや、これは鶯という季語による言霊で鶯という鳥は「春告げ鳥」なんだから、春に間違いはないのだと言っても多和田葉子には通じないのかもしれない(実際には多和田葉子はわかっているのだがドイツ脳で疑問を問うたのだ)。つまり春になる前に懸命に春を探して、春が来たら先取りして歌を詠む。相聞歌の歌でも最初男から女へ振られたように恋しいと詠むと女も男に襲われたように後悔するというような。
それは和歌が培ってきた常識みたいなもので、すでに疑うことをしないのだ。先の句はすでに袖に梅の香が染み込むと仮定しているのだ。いまだったらクリーニングに出すか洗濯してしまえば柔軟剤の匂いの方が強くてとても梅の香など留めておけないだろう。またその服を洗濯もせずに着ていて匂いを嗅いでいる人がいたら、頭がおかしいと思うのだ。なんでそんな未来を予知して幻想に浸っているんだ、春だからか?梅の香を梅干しの匂いだと思ってしまう我の浅はかさだと言えるのか?梅と言えば、母が梅を干して部屋を臭くさせていたなと思うのである。
梅の香がいいというのは現代人には通じるかな?ラベンダーとか薔薇の匂いの柔軟剤の方に惹かれるのではあるまいか?
NHK短歌
先週投稿投稿の案内を出すのを忘れた。「プラスチック」という課題が難しいがMGQの「プラスック・ドリームス」という曲が好きだった。そこからイメージさせよう。
自由に生きろ形はどうあれその形が窮屈なプラスチックの夢
こんな感じか。もう少し詩的にしたい。くびれはプラスチックだからそれを真ん中に、夢が流されていく感じにしよう。
俵万智の方は先日作った。
『短歌研究 2024年2月号』【特集「芸人の短歌がアツい」】
短歌と芸人のコラボ。アイドルとのコラボとか、短歌界も生き残りに必死なのかもしれない。ちょっと芸人というのが苦手だった。今の笑いが好きじゃないのかもしれない。昔の権力者をパロディにするような芸人がいなくなったというか珍しくて映画が作られる時代だった。その客もほとんどジジババなんだが。自分も含めて。若手のお笑い芸人のコントはまず見ないし、TVのバラエティ番組がそもそも好きじゃなかった。
今回のこの企画。最初にコントを見るようにQRコードが出ていてそのYou Tubeを観てから、芸人が短歌を詠む仕掛けになっているのだ。コントを観てないと短歌はよくわからないかもしれない。歌人としては東直子がプロデュースという感じの歌会形式。
やっぱ歌人だけあって東直子は上手い。短歌だけでも意味がわかるし、魅力的な短歌になっている。「ふわふわの光」が東直子用語かな。「心・技・体」というコントの言葉を拾って、もっとも重要なのは「ここに」がリフレインされた「ここにおります」。地下アイドルオタクのコントなのだが、女性ファンに絡んでくるキモ男のコントを爽やかに伝えている。東直子の短歌になっている。
これは上手いと思うが説明を聞かないとわからない。短歌が独立してないのだ。ライブ会場なんかでトラブルが起きてSNSのファンサイトに連絡が入ることがあるのだそうだ。そういうことは全然知らないから、これは単なるライブの入場案内かと思っていた。コントを踏まえて「出禁」なのだった。
そのままを詠んだ。
に近いな。
これも東直子の短歌として独立している。「やさしさが」「空にとけます」はコントではないのだが、その前のリフレインの詩形とともにメルヘン短歌になっている。
ちょっとミステリーぽく描いてみた。風船が象徴するものは少女性。少女から女になる風船のイメージ。字余りばかりだが。
水野葵以という人は歌人だったんだな。それで目の付けどころが斬新だったのか。
芸人と短歌の解説が
ゴウヒデキ「芸人と短歌の通底―面白さを支えるもの」
三点。
スキルについて。「観察力」これは芸人には負けるな。まったく観察力はなかった。想像力だけで勝負している。
技法について。
ツッコミ、ずらし、見立て
姿勢について。アウトプットしていくこと。
NHK短歌(2024.2.18)
「さえ」の助詞が強調ポイントとなっている。
助詞を変えることによってスピード感を増して変化していくものを描写する。
他に助詞は繰り返すことでリズムを生む。「~でも~でも~でも」に言葉を変えて当てはめる。「愛でも恋でも不倫でも」とか。
助詞は歌の基本を作る言葉。
吉野宏志さんは技術論だからわりと面白かった。第三週は大森静佳さんに変わるのか。彼女も技術論になるのかな?川野里子と重なるところがあるな。
映画短歌
今日は絶対にこの映画だと思った。『コット、はじまりの夏』
本歌。
助詞の使い方の勉強だな。
難しかったかも。「うたの日」がなくなったから、投稿先がNHK短歌しかないのだった。今日は枡野浩一さん「はじめまして/こんにちは」(テーマ)にチャレンジしよう。
こんなんでは駄目だろうな。前半はいいと思うのだが結句だな。
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