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シン・俳句レッスン179




現代俳句

まさら俳句第十一回 「団塊世代に難解を聞く! 大井恒行対後藤章」 ゲスト:大井恒行

『豈』という前衛俳句の難解句を読むという特集。品切ればかりだ。図書館にあるのか?同人誌だからないのか?国会図書館に行けばあるかもしれない。

過激さを求めるという。

難解な俳句に向かって我々が望むのは言葉しかない。(略)
前衛俳句の読み方というのは、花鳥諷詠句と異なり、解釈だけでなく、構造分析や連想を駆使しなければ完結しない。

筑紫磐井

ボクは思う。一句一句の完成度はもちろん評価に値するが、なお、句の可能性について、何かを想わせる、何かを感じさせてくれることに重点を置いている。

大井恒行

船のゆく音だまのさきはふ常世(エデン)

それほど難解でもないよな、「音だま」は言霊だろう。「ふ常世(エデン)」はルビと考えればよく 不常世 エデンだと思うのだが「ふ」を何ゆえひらがなにしたのか。「ふ」の音韻で「負」「歩」「麩」と様々な掛詞になるからではないか?「音だま」も「だま」のひらがなと対応しているのかもしれない。
詠み手はキリスト関係だという。だったらこの船は魂の乗り物ということだろう。

今ブームなのは田中裕明だという(ちょっと苦手)。季語の離具合が微妙(意味不明)。女性人気が高い。攝津幸彦はまあ好きだと思うがあまり良くは知らない。高柳重信の流派かなと。

今の俳句はゲームのように作られている。それはあるな。AIに任せればいいというような。だから、生身の存在感が必要なのだ。

写生は眼というより脳(意識)の問題だから成り立たない。ものをよく見ろというのは間違い。生きてきた経験的記憶が大事。言葉派もそっち系なのだという。

無意識はルールに捕らわれている。月並み俳句。自己模倣に陥る。自己革新していくのに難解派も有季定型もないというが、自己模倣がネックだな。自己模倣はキャラだとしたらそれでいいのではないか?

作者の責任論。投げっぱしでいけないということか。読者の理解に近づける俳句。

投稿ではなく勝手に自主出版しろというが、そこまでマネーもないし、賞の権威というものがあるんだよな。もうそういう位置にいない人だから、これは言える。

俳句に意味など必要だろうかということである。(略)
俳句が所詮連想ゲームであるなら、作者と読者の呼吸が合う、つまり「息が合う」という状況を作りさえすれば、その作品は優れていると思う。

『摂津賞』選評川崎果連

これは内輪俳句の道だよな。飯田龍太とか有季定型派でも前衛俳句の影響を受けていた。だから飯田龍太にも好きな句があるのだ。やっぱ内輪は良くない。まあ句会との棲み分けなのかなと思う。句会はゲームだった。


文芸選評

俳句 兼題「水仙」
毎週土曜日にお送りしている『文芸選評』。今回は俳句で、兼題は「水仙」。選者は俳人・津川絵理子さん。司会は石井かおるアナウンサーです。

兼題が難しい。鏡餅が終わって次に飾られたのが水仙だという。そういう昔を思い出しての兼題だというのが、懐かしさと他に花がない季節に我が物顔で咲き誇る水仙か。ナルキッソスの花だから。

水仙を手向けの花と地蔵尊 宿仮

水仙の光分け合う暮らしかな

一席、慎ましい暮らしを感じさせる。

2月1日放送 兼題「湯豆腐」 堀田季何
※締切 1月27日午後11時59分

これも難題か。湯豆腐はありきたりの冬の鍋物か?老いと白が潔いイメージ。現代的な湯豆腐とは?ジェンダーレスとか?

芭蕉の風景

小澤實『芭蕉の風景上』より「第三章 笈の小文」から。

何の木の花とはしらず匂哉 芭蕉

これは花木の名前もわからないのに、その匂が存在感を増しているのだ。香木の類か。伊勢神宮に参拝したときの句。神聖な場所ならば、そこに神意が宿っているという。匂いは神の気配か?西行?作の本歌取り。

何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるヽ 西行

神々も当たり前田のクラッカー 宿仮

当たり前のお菓子にさえ神々が宿っているというありがたい句。神々も驚いてしまうかもしれないが。

此山のかなしさ告げよ 野老堀 ところほり 芭蕉

野老掘は山芋科の植物だという。「野老掘る」で季語にもなっていた。山芋が細い髭根を多く付けている姿から老いを連想したという。ただ芭蕉は「堀」を用いてのは間違いで本来なら「掘」としなければならないという。それは掘る人に尋ねた句だからという。「この山の悲しみを告げてくれよ、野老を掘る人よ」の意味。この山が(荒れた)菩提寺だったという詞書があり。

ただ芭蕉がこの句を作ってから再建されたという。また現在はそれもまた失われたという。

寺を生み荒んだ寺にて輪廻転生 宿仮

神垣やおもひもかけずねはんぞう 芭蕉

芭蕉の句は神々が多いのがアニミニズムなのか?神宮なのに涅槃仏の絵が掛けてあったという驚きだという。仏教徒をこばない神社だという。

寝ていても祈ればおはす神々ら 宿仮

随分いい加減な句だった。神々をまとめて「ら」とか。

裸にはまだ衣更着の嵐哉 芭蕉

全裸で祈る僧を詠んだ句。これも伊勢なので神仏習合の句だという。ただ明治には僧侶は正殿に入ることは許されず、西行も遠くで拝んだという。上の句は拒まれたことを詠んだという説。芭蕉は自分が伊勢に来て異物だと意識していたという。

異邦人礼儀も知らず拝むかな 宿仮

香にヽほ(匂)へうにほる岡の梅のはな 芭蕉

芭蕉にとって匂いは特別な霊性だったのかもしれない。訪れということだよな。これは「うに」を詠んでいたのか。ただこの「うに」は方言で泥炭のことだという。難しいな。「うに」はそのままでは匂わず火付けると嫌な匂いがするという。それを梅の花と詠む芭蕉なのか?その嫌な匂いも故郷の懐かしさという解釈だった。やっぱかなり難解の句だ。

生きてれば生存の香り加齢臭 宿仮

さまざまの事おもひ出す桜哉 芭蕉

それでこの句なんだ。蝉吟(芭蕉の師匠)の息子を偲んだ句だという。難解な言葉もなく味わい深い句。これが蕉風俳句。

蕉風も桜吹雪天の空 宿仮

手鼻かむ音さへ梅のさかり哉 芭蕉

この辺の諧謔性も芭蕉ならではか。手鼻は杜国をからかった句だとか。さざえさんがやっていたイメージが強い(幻想か?)。

姑の小言も手鼻春爛漫 宿仮

よし野にて桜せうぞ檜の木笠 芭蕉

芭蕉の諧謔性と聖性の取り合わせの句だった。これが杜国との愛の唱和になるのだ。

よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 万菊丸

杜国は興奮しすぎて季語を忘れていると言ってたが、歌枕(よし野)があるから季語は必要ないのかも。

よし野夢枕の花盛り 宿仮

春の夜や籠り人ゆかし堂の隅 芭蕉

芭蕉の引き籠もりの俳句か?これは僧侶とかで、この僧侶は西行であり、芭蕉であり杜国だという。

春の夜やきみもぼくらも引き籠もり 宿仮

猶みたし花に明行神の顔 芭蕉

芭蕉の放浪は神々の祈りの道なのだ。そこに手向けの花やものがあるのかも。この俳句は葛城山で詠んだもの。この句は写生句の対極にあるもので、アニミズムの一言主を詠んだ句だという。神の姿は写生出来ない。

行春にわかの浦にて追付きたり 芭蕉

春を擬人化して、歌枕の「わかの浦」で追いついたという俳句。杜国との旅もここで終わるという。

わかの浦行ったつもりで日向ぼこ 宿仮

草臥れて宿かる ころや藤の花 芭蕉

初句は

時鳥宿かるころの藤の花 芭蕉

だったのを旅の終わりをイメージしたのだ。だからこの「藤の花」は実際の花ではなく象徴(手向けの花)なのだ。時鳥は素性法師の『古今集』から。

いその神ふるき宮この郭公 こゑばかりこそ昔なりけれ 素性法師

『古今集』

異国への旅の果にて藤の花 宿仮


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