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『資本論』で読む『失われた時を求めて』
『失われた時を求めて6 〈第4篇〉ソドムとゴモラ 1 』マルセル プルースト , 井上 究一郎 (翻訳)(ちくま文庫)
女はゴモラをもち、男はソドムをもつだろう――性欲倒錯症についての理論的考察につづいて登場人物間の意外な関係、同性愛が明らかにされる。
「ソドムとゴモラ 」シャルリュス男爵と仕立屋ジュピヤンの同性愛の現場というより花と蜂の観察日記で50ページぐらい描写するとは。その後にゲルマント大公夫人のサロンのパーティーへ。これがソドムの入り口であるが、語り手は同性愛者ではなく、プルーストが同性愛者だったことからも語り手=プルーストとするのは無理がある。作家は作品の中に現れるとしたサント=ブーヴのバルザック批評の批判の為に書かれたのだから当然か?
しかしまったくないかと言うとそれも違うであろう。どこかしら作家の趣向は混じってしまうものなのかとも思う。それが大胆にも「ソドムとゴモラ」で比喩的な形とはいえは語られているのだった。
ゲルマント大公夫人は(パーティー会場の)ラスボスかと思ったらそうでもなかった。それにしてもパーティーばかりで読む方も疲れる。この時期語り手はモテキだった。それもゲルマント公爵夫人の威光なんだろうが、ゲルマンと公爵夫人のお墨付き青年というわけだった。かつての社交界の貴公子であった年老いたスワンの姿が悲しい。しかし、スワンが現れるとホッとするのも語り手との精神的繋がりだろうか?
スワンほどのガイド役はいなかっただろう。「スワンの恋」でのヴェルデュラン夫人のサロン(1巻)、そして、避暑地バルベックでのサロン。厳密にはサロンではないが、アルベルチーヌと乙女たちの遊び場(2・3巻)ヴィルパリジ侯爵夫人(サン=ルーの叔母様)のサロン(4巻)、ゲルマント公爵夫人のサロン(5巻)、そしてゲルマント大公夫人のサロン(6巻)。一つは貴族のサロン文化がテーマなのである。
ゲルマント大公夫人のパーティーあとにアルベルチーヌが尋ねてくるのだが、なかなかやってこない。それで電話して来させるようにするのだが、そのときのテクニックがナンパ師のものだった。さらにアルベルチーヌを門番に喩えているのは、アルベルチーヌを娼家の門番に喩えて、それで奥の秘密の部屋にたどり着けるというような(ベンヤミンによると娼婦は、女性の商品化の始まりで資本主義社会の幕開けなのだ)。カフカかよ、と思ったがプルーストの方が先だった。
アルベルチーヌは孤児だけど貴族の血筋(叔母がボンタン夫人という貴婦人)。語り手はブルジョア階級だから、階級としてはアルベルチーヌの方が高い。しかし、語り手はアルベルチーヌを娼婦まで引きずり下ろしたいという欲望があるのだ。この頃はモテキというか、女遊びが激しい時期で、サン=ルーやブロックはそういう悪友でもあった。高尚な話ばかりと思っていたが隠された下ネタもある。でもこれが大事。
『失われた時を求めて』を読むコミュニティ(読書メーター)ですでに岩波11巻『囚われの女II』まで読んでいた方が、216pの「剰余価値」というマルクスの用語が出てくることを教えてくれた。
『失われた時を求めて』の「剰余価値」の話は興味深い。マルクスが出てきたのは19世紀でプルーストとも重なる。その時代はブルジョア(資本家)が登場してきて、何でも商品価値に置き換えてしまう時代。今読んでいる『武器としての「資本論」』(乱読で収まりがつかない)の受け売りだが、「商品」が発生するのは一つの時代の終わりで、それがあまり必要でなくなるときに「余剰価値」となっていく。貴族社会や古典文化の終わりと共にそうしたものは「余剰価値」として貴婦人や芸術が「商品化」されるのかもしれない。恐ろしや、プルースト。
娼婦は商品だとするのは、ベンヤミンに出てくる。そうするとアルベルチーヌを商品化して消費するのが語り手だということになる。もちろんそれはプルースト自身ではなく、そうしたブルジョア社会の告発書としてマルクス『資本論』と同じような「価値」があるのではないかという、それを我々が読書としてただ「消費」する。ただプルーストには愛がある。それが祖母の愛だった。それと、芸術愛。
スワンが美術品蒐集家でもあり、画商でもあったのならば、資本家として語り手のガイドになったのはもっともなことだ。ただスワンはただの画商ではなく研究者としての(フェルメール研究者)愛があった。そして、オデットへの愛。最初は娼婦だと思っていたが。
語り手がスワンをガイド役として、サロンに潜り込み女性たちと戯れる。しかし、彼女らの顔の相貌の中に間歇的に近親者の顔を見出すのだ。早い話がマザコン。母のキスのお預けからこの話は始まっている。そして、ジルベルトのお預けとアルベルチーヌのお預け。しかし、パリでアルベルチーヌに再会した時はお預けではなかった。
そして、「心情の間歇」章。ここがプルーストの時間論なのか。祖母の死を一年後のバルベックで思い出すということ。死者との想い出の場所。あと想い出の共有というのがあって、母やフランソワーズとの祖母の想い出。そこでけっこう泣ける話なのだが、さらにもう一つあるのだ。
バルベック旅行で祖母が気絶していたことを隠していたこと。それをホテルのボーイ長から聞くのだが、それもボーイ長の間違った言い方で(新語を使いたがるボーイ長なのだが、いつもあやふやにしか覚えていない)。それでもそれが一瞬に語り手の中にイメージが出来てしまい、一年前は祖母をうざく思っていたこととアルベルチーヌとの欲望で忙しかった。そこまで祖母が周囲の者に気を使って生きていたことが想起されるので語り手は後悔の念にとらわれる。それが夢の中に出てくるのだった。無意識の領域。
祖母は生きている(霊的交通と呼ばれるバタイユの概念と近いかも)。近親者との想い出の語らいとして、死者を語る時にまだ生きているとして語る。震災で亡くなった人やそれまで離れていたから、突然死を知らされた場合など。意識の中でしか存在していなかった者の突然の死。無意識領域での存在。そうした血縁者(フランソワーズは侍女だが)の存在の大きさだった。
アルベルチーヌが14番目の愛情(欲望)を与えてくれた女子だという。ここに脚注が付いていて、「13」は死の数字でそれが戻って、14番目に再生する。再生(再現)のアルベルチーヌを加えたという説。ネルヴァルの詩「13番目の女が戻ってくる...それはいつまでも一番目の女だ」を暗示しているとか。13人の女の子、最初がアルベルチーヌで14番目もという。数字(数値化)に関することは注意が必要かも。
『資本論』だと思って読むとそういう情景ばかり注目してしまう。バルベックのエレベーターボーイが「労働者」として、勤務時間を過ぎると制服を早く脱ぐように母親に言われた。そして「余剰時間」を本を読んだり、ダンスパーティーに行ったり、ブルジョアのフリをして過ごすと。『サタデーナイト・フィーバー』世界。そして、ダンス会場でアルベルチーヌの秘密に触れる語り手だった。
無縁者(保護者のボンタン夫人から引き離して)とさせらるアルベルチーヌは娼婦となって商品化させていくのだが、その先にアルベルチーヌの秘事(同性愛)問題が出てきて、語り手の心情は掻き乱されるのだ。嫉妬の感情で、それはかつてスワンがオデットに落された恋と同じ運命を辿るのか?
バルベック時代の回想は、「千一夜物語(アラビアン・ナイト)」の世界を彷彿とさせる異世界だった。それはオルフェウスが紛れ込んだ神話(ディオニソス)たちの世界なのだ。ニッサン・ベルナール氏の暗躍。