光源氏は鬼なのか人間なのかそれが問題だ
『源氏物語 05 若紫』紫式部 , (翻訳)与謝野 晶子(Kindle版)
角田光代訳「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集4、5、6」は分厚ので電車の中や外では電子辞書で読んでいる与謝野晶子訳は小分けで出ているので便利です。
ただ与謝野訳は和歌が翻訳されていない。橋本治に言わせると『源氏物語』の和歌こそが女官が目上のものに対等にもの言える口語体なのだと。口語体は言い過ぎですが、和歌で比喩で気持ちを象徴させる裏読み的なものがあるのは事実だと思う。それを特に感じたのは「桐壺」で桐壺が亡くなって母親の元へ遺体だけが返される時に詠んだ母親の和歌に現れていると思う。ここでは違う巻なのでやりませんけど。そういう意味では光源氏の和歌と女官の和歌のやり取りは、けっこう重要だと思う。
その前に気になった与謝野晶子訳で、若紫が光源氏にさらわれる描写で、光源氏が若紫に言うセリフで
と訳している。この訳は伊勢物語の「芥河」である男(在原業平)が姫(藤原高子)と暮らしていたのに鬼が来てさらわれたとされる部分を連想させる。でも後から考えると鬼だったのはある男のほうで姫をさらってきたのを兄たちから取り戻されたということを芦原業平は鬼(に食べられた)と言っている。
「鬼」という言葉を出すことで『伊勢物語』の関連性が伺えるのだが、はて?角田訳ではその言葉でてきたのか?と探したら
意味は同じなのだが受け取る印象が違う。「鬼ではない」というのと「人間だ」という意味の違い。原文にあたってみなければわからないですけど、与謝野晶子は『伊勢物語』を意識した訳ではないのかと。
角田訳では「父宮」の代わりと印象付けているのは、光源氏のロリコン疑惑に対する言い訳でしょうか?You Tubeで古文の先生とかの解釈を見ると、光源氏の内面を理由付けとしている(父親代わり、後ろ盾のない同じ境遇)。しかし犯罪者を断罪するのは、犯罪者の内面よりも世間の見方なのだと思う。それは光源氏が頭の中将に言えない隠し事だということで明らかだろう。何かと隠し事が多い光源氏は謎の男というよりも、欲望を隠しだてしてしまう欲望まみれの男の業としての面白さかもしれない。
角田訳はそのようにして読めば、人間の暗部に踏み込んだとも言えなくない。
若菜のタイトルになった和歌。
それを盗み見(聞き)した光源氏の和歌
山を去る時に光源氏が送った和歌。どこまでも大げさな和歌だった。涙が滝のようなとは漫画的。僧都の冷静な返し。
尼君にダメ押しの手紙も届けさせる光源氏。
その後に藤壺との逢引があり藤壺を妊娠させてしまう。そんなことはおかまえなしに若紫に対する心情が募る。
光源氏が若紫をさらってきた後の和歌の内容は不気味すぎる(角田訳では藤壺の身代わりとして、まだ寝ることはできぬがという意味)。それにあどけない和歌を返す若紫。
あな、恐ろしや。