「反解釈」というう「解釈」
『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』波戸岡景太 (集英社新書)
ソンタグの『反解釈』は「解釈しない」という「解釈」であって、権威的な解釈よりはキャンプ趣味(キッチュみたいなものだと解釈するけど)で楽しもうぜ!みたいな、だからソンタグの批判的部分の釈明ではなく面白さを伝えればいいと思う。
『反解釈』では『ラドン』のピアノ線が切れて実際に炎上してまうハプニングの素晴らしさを語っているのだった。そういう予想外の出来事を楽しんでしまおうというヒッピー文化的な側面があったのだ。
『写真論』ではダイアン・アバースのフリークスに惹かれてしまう大衆の欲望みたいな。それが自身が癌宣告を受けてそれを親友の写真家に撮影させるというスキャンダラスな事件をも予想していたと思うのだ。
そういう意味でソンタグ自身フリークス的身体性(これは老いや病では誰でも経験するかもしれないのだ)を晒したのだと思う。それは息子の解釈の違いは当然であり、そこから議論が生まれていくような問題提起としてのソンタグの姿なのだ。
大江健三郎との討論は朝日新聞という紙上でのもので、ボスニア民族紛争でのNATOの爆撃の是非という問題があったのだ。その行き違いがあったのだと思う。討論ではよくあることだと思う。
文脈ということを言っていながら、大江健三郎が隠喩として「癌」で喩えてしまったことをあげつらうけど、隠喩で語ってしまうのは大江健三郎だったら当然あると思う。
ソンタグは哲学畑の批評家なので厳密さを求めるがその行き違いが出たのだと思う。ソンタグも若い頃は癌という隠喩を使っていたという。当事者にならないとそれが差別用語かどうかはわからないのだと思う。
結局ソンタグも9.11のときは軍隊派遣に反対していたので、そのときの討論は無駄ではなかったのだと思うのだ。ソンタグも大江健三郎も論争癖みたいなものがありそれが表現の芸となっているのだろう。
それは批評家として当たり前のことなので、ソンタグのスキャンダルを述べるのはそれで興味を持つ人もいるだろうけど、それだけの興味だけではソンタグの面白さは伝えられないと思う。『隠喩としての病』は癌だけでなくエイズやウィルスが流行った後に言論界では、あらゆる場面に使われているのだ。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?