葉桜に児島娘と鳥の歌
旅の写真はあいにくの雨模様の天気であまり良い写真がないのがジーンズの街児島の駅で撮ったイメージ写真が良かった。実際にはこんな海は見られなかっただが。
瀬戸内海である。夕日が出たら綺麗だろうなと思って、旧野崎浜灯明台を見に行った。それは江戸時代の「澪標」とあって、そう『源氏物語』「澪標」の帖を連想したのだった。
瀬戸内海はそういう海の恵みでなりたっていた島が多く児島もその一つであったのだが瀬戸大橋が出来るとそういう産業は廃れてしまい新たな産業として開拓したのがジーンズだったということだ。だからやたらとジーンズが干してある。自動販売機まで。
天気が良かったら小豆島に行きたかったのだが雨予報なので急遽児島に変えた。「図書館ウォーク」ということもあって児島図書館へ。そこで児島の歴史の本とか雑誌とか読んでいた。
図書館で大江健三郎『燃あがる緑の木』を読んで硝子向こうの葉桜を眺めていたら、花見の少女らがコンビニで買ったお弁当を広げて食べていた。その葉桜に小鳥もいた。硝子の向こうの世界なので音は無音なのだがイメージとして鳥の声と少女たちの声が聞こえてくる感じだったのだ。
そのときふと「魂」のことを想い出したのだ。それは大江健三郎が小説の中で描いている一瞬の永遠というものの姿。幼い頃に川の窪みで水死しそうになったことがあり、そのときに小魚の群れが一方向に向かって泳いでいる姿と自己が重なったのだという。世界内存在という自己というような。そういう永遠性。
そして駅前で筑紫娘子児島と大伴旅人の碑を見つけた。筑紫娘子は遊女でたまたまこの島出身だったので歌を詠んだらしいのだが。
そこで一首。
大江健三郎『燃あがる緑の木』は、新興宗教に魂の拠り所を求めていく人々を描いている。ただ大江健三郎の魂の拠り所は宗教ではなく文学なのだ。そこがオウム真理教などの新興宗教とは違う魂の救済だった。
『燃あがる緑の木』は人生のレイトワーク(晩年の仕事)で人は魂を求めるようになり、死ぬ間際に一瞬だけ永遠を感じる時間があるというのだ。それは永遠に長い個人の時間ではなく世界内存在の個という時間なのだ。それは詩や聖書の言葉の中に蘇る世界だった。
大江健三郎『日本の「私」からの手紙』は「あいまいな日本の私」と対となる講演や書簡。その中で地下鉄サリン事件のことについて述べているのだが作家の想像力が現実世界の方が上回っていたと書いているが謙遜だろうと思う。すでにそいう新興宗教的なテロ事件ではドストエフスキー『悪霊』が描かれていた。大江健三郎『燃あがる緑の木』ではドストエフスキーにも言及されている(『カラマーゾフの兄弟』)。
『燃あがる緑の木』のサブテキストとして、佐木隆三『慟哭 小説・林郁夫裁判』を読んだ。旅の本ではないな。
ただそういう魂を求める旅だったのかもしれないと思った。大江健三郎『燃あがる緑の木』を読めたのは旅の想い出として残っている。正確にはスマホの電池切れで最後まで読めなかったのだが。
天気も悪いので旅を切り上げて帰宅する。昨日見た夜桜の朧月が今回の旅で一番良かったというアイロニー。見たい映画があったのだ。『ベネデッタ』。これも魂を巡る修道女の物語だが、ジャンヌ・ダルクと重ねて描いている。イエス・キリストの幻想は、「自己愛的人格障害」のように思える。林郁夫が麻原彰晃を論じた症例。ただ宗教人はこのタイプが多いと思う。
自己と世界という対立構造で捉えるのではなく、共鳴構造で捉えるというのが大江健三郎の作品なのだが、ただそれは世界の中心ではなく辺境ということなのだ。
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