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女性から母性への「乳房よ永遠になれ」

『乳房よ永遠なれ』(1955年/日本)監督:田中絹代 出演:月丘夢路、葉山良二、杉葉子、森雅之、川崎弘子、大坂志郎 原作:若月彰、中城ふみ子

歌人・中城ふみ子の半生を映画化した田中絹代監督の三作目にして代表作。歌を詠み、人を愛した女性の生の煌めきを月丘夢路主演で描いた感動作!
ふみ子は甲斐性なしの夫との離婚を決意し、二児を連れて実家に戻る。以前から参加していた歌会には、親友・きぬ子とその夫・堀がいる。堀はふみ子の短歌の才能を高く評価していたが、急逝してしまう。ひそかに想いを寄せていた堀の死と自らの乳がんの発覚に打ちのめされるふみ子のもとに、短歌の入選の知らせが届き、新聞記者・大月が取材にやってくる…。

田中絹代監督が「女性として感じることを女性として表現したい」と公言していたという渾身の作品。自らの俳優としてのキャリアを活かしたかのような、月丘夢路のクロース・アップの美しさ、透徹した演出は圧巻。田中絹代の強さと大きさすら感じさせ、時代を超えて、すべての観客の心を激しく揺さぶり続けるであろう傑作。

原作に中条ふみ子とあるのがミソなんだけど、これはすでに故人となっているのにと思うかもしれないが、中条ふみ子の短歌を元にして、新聞記者の若月彰が編集して脚本化したという内容。その経緯がいろいろあるようで、現代歌人文庫『中条ふみ子歌集』の解説(歌人論)でいろいろ書かれていた。
 それによると中条ふみ子は乳房を失ってもなお女の情念として歌い続けたのであり、映画ではその相手の新聞記者が聖女化してしまったということなのだ。聖女化というよりマリア化(母性化)ということだろうか?そこにこの映画の特徴があって甘いと言えば甘いのである。
 それでも監督は田中絹代である。しかっかりとそのへんのところを描いていたと思うのは、ふみ子(月丘夢路)が親友である歌人仲間(夫はふみ子の憧れの人だったが故人)の妻(杉葉子)に風呂場で切除した乳房を見せつけるシーンがある。それはふみ子の歌人仲間の堀(森雅之)に恋心があり、その妻とはライバル関係にあったからだ。実際にふみ子は先に亡くなった堀に短歌を書いていたりするのだ(それは恋歌なのである)。
 映画の中ではその妻との交流のように描かれていたのだが内面では風呂場で切除した乳房を見せつけるシーンに女性としての感情が出ていたと思う。そのときの狂気につかれたような月丘夢路の表情は、妻に対しての当てつけもあったのだ。病を抱えたもの同士への感情。そして、ふみ子を歌人の世界に送り出したのは堀だったのである。

だから最初ふみ子が新聞記者を拒み続けたのは、新聞記事のこともあったのかもしれないが、女としての情が再びやってくる恐れがあったのではないかと思うだ。堀とは歌を通して繋がった精神的恋人であり女としての身体はすでは除去されているのある。

一つは長男の扱い方があり、ピストルの歌がなかった。これはけっこう凄い歌で、長男が見舞いに来たときにおもちゃのピストルの銃口が自分に向けられていたというのある。母と女の葛藤がある歌なのだが、その部分がなくて長男思いの母のイメージを演出していた。それは学校にいる長男に病室を抜け出して会いに行く母性のシーンによって際立たせていた。そこが新聞記者との恋愛感情は希薄になり、ただの仲介者にすぎないと位置にいたのかもしれない。新聞記者と出版社(短歌)の関係がいまいちよくわからないのだが、夭折の歌人としてふみ子を売り出したいと思ったのは事実で、彼女も歌を生前に残すことは拒否していたのだ。
 こういう話はカフカでも、最近読んだ中江兆民が弟子の幸徳秋水に託した手記が本人の意志に反して生前に出版されるということがあるのだ。
 女としての感情は、新聞記者に会うときに着替えて口紅を塗るところとか母親に髪を洗ってもらう(与謝野晶子『乱れ髪』を連想した)シーンに出ていた。
 そしてラストの絶唱は子どもたちに送った短歌となるのだが、それは河野多恵子の絶唱の短歌に似ていると思ってしまった。その歌が強調されることで、最後は母性が勝利する映画となっているのだ。

 そしてラストは洞爺湖(亡き友人が語った思い出の地)に歌ではなく(作品を洞爺湖に捨ててほしいと願ったふみ子を反故にした)花を子供たちと捧げることになる女性から母性への映画として完遂しているのだった。

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