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「抱擁」されるのは読者かも

『抱擁家族』小島信夫

妻の情事をきっかけに、家庭の崩壊は始まった。たて直しを計る健気な夫は、なす術もなく悲喜劇を繰り返し次第に自己を喪失する。無気味に音もなく解けて行く家庭の絆。現実に潜む危うさの暗示。時代を超え現代に迫る問題作、「抱擁家族」とは何か。第1回谷崎賞受賞。

江藤淳『成熟と喪失』を読んだから。まあ大体江藤淳の読みに沿っているのだが、ただこの小説は三人称で描かれているので、この夫=小島信夫でもない。日本の駄目夫を絵に描いたような、家父長制の中にどっぷり浸かって育ち、妻をお母さんと呼ぶタイプ。妻もアメリカ人のGIと浮気したはいいが日本の家に拘るタイプで相互依存的な妻だった。そして妻に癌が見つかって、悲劇に襲われる。前半は喜劇的な家庭ドラマなんだが。この夫は『男流文学論』で批判されるのはそうなんだろうけど、小島信夫がそういう夫ではないのは、癌になった妻への非難として医者の言葉があるから、少なくともその部分は家父長制批判になっている。

アメリカとの関係性。それはアメリカが父性社会だから。日本の駄目な父親。マッチョな父親。エディプスコンプレックスか?日本はマザコン社会。

フェミニズム視点の『男流文学』での上野千鶴子にも『抱擁家族』の江藤淳の精神分析批評のようにも読めるかもしれないが、感想としては家庭内悲喜劇の小説で感動する。それはやはり妻である時子のキャラや俊介の心の揺れが運命によって大きく左右されるからだろう。その語り方は読ませるし、フェミニズムや精神分析批評では見えてこない細部には登場人物の呼吸が感じられる。特に癌になって時子が亡くなっていくシーンかな。その前後は図式的な感じはするが、そこのシーンだけは感情移入してしまうのはやっぱ小島信夫の語り方が上手いんだろう。

例えばフェミニズムから見た俊介の家父長制の駄目さ加減は大学の専門医から見た批判に当てはまると思う。乳癌になったのも分からず(それは性的関係がないことも言われてしまう)妻を一人病院に行かせる(医者に癌宣告されるまで妻に付き添わない)。それまで家庭のことは妻に任せっきりで自己中心的な家父長制の家に収まることしか考えていなかったのだ。

ただ医者がもう癌の妻に対して治療は無いのだと言われた時の絶望感。高価な薬も必要なくただ実験検体としての癌患者として、そのシーンは病院という非常さを感じてしまう。妻がモルヒネで終末医療の一環なのか修道女の祈りを受けさせる気持ちにはなれない怒りや、妻のためにオムツやパジャマを買いに行く中で誰かに聞いてもらいたい気持ちや品物が鳴い時の怒りなど、揺れ動く感情の激しさは精神分析批評で分析されるものでもない。たぶんそれはそういう体験を通して誰も感じていることだからこそ悔しかったり後悔したり怒ったりするのだ。

そして看護婦には何気ない親切にも過剰に感動してして(向こうはプロだから)と妻が亡くなった後になってすぐ結婚したいと思ってしまう俊介の愚かさには笑ってしまうものなのだが。そういうところで家族悲喜劇小説としてはよく書けていると思う。

例えば妻が駄目夫に愛想をつかして軍人のアメリカ人に近づくのも江藤淳の分析のように日本の敗戦によって新たな文化資本が日本の伝統を駆逐してしまうという構図はそうなのだろうが、妻にも揺れがあり、最終的には夫を駄目夫ながらも受け入れる。駄目さ加減は共依存的に時子も夫と離婚してアメリカ人の妻になれないのは分かっているのである。そういう病理かもしれないが、時子がいたからこそ家族というものがそれなりに繋がっていた部分はあり、それは時子が亡くなると代わりを求めるようになるが、時子の代わりはいなかった。

なんだろう最終的には愛の「抱擁家族」という物語ではあるし、それは傍から見れば滑稽な家族劇なのだろう。ただその中にも愛の仕草を見出してしまうのだ。それは俊介の後悔ということかもしれない。その後悔をバッサリ切り捨てられるほど人間は強いものでもないのだ。またそんな小説だったら誰も読まないであろう。それだから読者を「抱擁」してしまう小説なのだ。

参考書籍


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