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シン・短歌レッス67
今日の一句
額紫陽花と山紫陽花は違うという話。日本に古来からあるのは額紫陽花でまた改良種として本紫陽花がある。山紫陽花は亜流だという話で混乱する。紫陽花は紫陽花だ。まあ額紫陽花は額紫陽花の方がいいのか?今日の一句。
額紫陽花の中の印象派
額紫陽花に「額の花」というのもあった。
額の花印象派をつめにけり
印象派を変える。絵の具、クレパス、クレヨン
クレパスを貸してと額の花
印象派クレパスを貸してと額の花
耳切つて絵の具を貸せと額の花
ゴッホの紫陽花は黄色いか?
うたの日
お題「時」。「百人一首」本歌二十六番。
難しいな。土地の名前は使いにくい。使えるのは「今ひとたびの」ぐらいか。
青春の十八きっぷ一人旅今ひとたびの時を忘れて
「時間よ、止まれ!」ひとたびの一人旅また日常に「お帰りなさい」
最果タヒ『百人一首という感情』を読んで。「青春の」で♪7で良かったのか?ただ♪では満足出来ず♡が欲しいとおもってしまう。次は♡狙うか?
俳句レッスン
日曜はNHK俳句だった。句会もあった。岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』から「俳句の即物性」についてを読む。
宇井十間は、新興俳句系の俳人か、岸本尚毅はNHK俳句の講師もやるような「アララギ」系?その二人の違いが出て面白い。
金子兜太について
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
この句から宇井十間はネガティブな電気屋のTVの前に人は感じられず画面だけがマルチ世界のように映し出されるという。そのマルチがすべて同じの黒人のスタートダッシュという怖さだろうか?
岸本尚毅はこの句だけを読んだ場合はむしろ高度成長期の明るさを読む。その違いだが、ただ『暗黒地誌』という句集の中にある限り明るい句とは読めないのではないか?そこはそう読みたいという岸本尚毅の意向がある。
宇井十間が問題にしていたのは、むしろコトバの意味的なものより、リズム的なもの。
にじゅうのてれびに すたーとだっしゅの こくじんばかり
音読すれば有季定型を外れた破調である。そこに都市性と共に八七七という同調させていくものを感じる。
即物性ということに関して岸本尚毅は、「寄物陳思」ということを言う。
先の俳句では「二十のテレビ」が物でそこに即物性が現れる。そこに「客観写生」が現れるという。そういう句だと言うのだった。もう一句の方が分かりやすいか?
国の喪や身にまつわりて蝿ひとつ 金子兜太
この句で池田澄子は『兜太百句を読む』で蝿を「うっとうしさの具象化」と読んだが、金子兜太はあくまでも「蝿」そのものであるという。それは「寄物陳思」(池田澄子の読み)ではなく、「寄物陳物」(金子兜太の詠み)であるとする。それは金子兜太に「蝿=社会状況」という図式に抵抗感があったからだとする。ただここで金子兜太は明確に池田澄子の読みを否定してはいないと思う。
池田澄子の読みは、それまでの蝿=社会状況の句の用例がありそこから導き出したものだが、金子兜太の韜晦さは即物性として読んで欲しいという客観写生であるというのだ。客観写生は蝿は単に蝿であるという読み方。
そこから「寄物陳思」と「寄物陳物」を比較して、「寄物」は客観ということで「陳物」をそのまま「写生」するという虚子の「客観写生」から外れたものではないという。
宇井十間は金子兜太の「韜晦」を「野暮」と言い換える。つまり池田澄子の読みは「野暮」であり、「粋」な読みではないと。ただそれは表現を狭めることで、金子兜太の俳句はむしろ逆なのではないか?それは「韜晦」という美学=粋を超えた所にあるのではないか?例えば
やれ打つな蝿が手をすり足をする 一茶
は客観写生の句であるばかりでなく、蝿=一茶という内面が現れてくるから名句なのであって、それは野暮でもなく「寄物陳思」という一茶の小さきもの弱いものに寄せる思いがあるとする。
「現代俳句』は山口青邨。4Sの一人。故郷を主題とする俳句やユーモアのある諧謔性が特徴。
ひもとける金塊集のきららかな
吸入の妻が口開け阿呆らしさ
みちのくの淋代の浜若布寄す
たんぽぽや長江濁るとこしなへ
舞姫はリラの花よりも濃くにほうふ
「金塊集」は正岡子規が持ち上げた源実朝の歌集
益荒男振りという。それを「きららか」と詠むのは正岡子規へのヨイショだろうな。
「金塊」というコトバが金の指南書のようだが違う(80年代には『金魂巻』というベストセラーがあったが)。「きらら」が「雲母虫」で夏の季語で、本喰い虫だとは知らなかった。今度使おう。
今日の一句だと、
雲母虫(きららむし)雨読本から根の国へ
「吸入の」は今は詠めない句だと思う。痴呆症で寝たきり老人が多いし、妻をそんな風に詠むなんて。こういうのが妻の愛情表現とされたんだよな。逆は読めるか?
吸入し夫が口あけ阿呆らしさ
保険金がたんまり入ってくる妻らしくて、これはいいかも。
「淋代の浜」での一句か?日本の白砂青松100選だそうで。
「たんぽぽ」の句は「たんぽぽ」の小ささと悠久の揚子江(長江)の対比。「濁る」は、屈原『楚辞』から「長江の流れは澄むことがない」から来ているとか。
「舞姫」は森鴎外の小説。リラがドイツの花を想起させるのか、それより鴎外『舞姫』だと言っているのか?鴎外のヨイショか?
あまり面白くないので次に行こう。藤後左右は初めて聞く俳人だ。4Sに次ぐ有力俳人らしい。即物的でモダンな句ということだ。
舞ひの手や浪速をどりは前へ出る
蟇(がま)の貌(かお)チブス患者の夢にくる
「浪速をどり」は「河内音頭」だと思ったら違った。大阪の「曽根崎(新地)」で有名の春の踊りだそうだ。京都の「都踊り」では駄目なのかと思ったらすでに詠んでいた。「浪速をどり」は手に特徴があるのだった。
口々に都をどりはヨーイヤサー
踊りの句も調べてみると面白いかも。盆踊りも風流だしね。ただ土地の者ではない悲しさがある。
「蟇の貌(かお)」の句。顔を貌としたところがポイントが高い。俳句も声を出して読むから目で観て楽しむ現代詩っぽくなっているのだ。そこにあまり気が付かないけど、そこまで注意深くなってこそ凡人脱出だと夏井いつきなら言いそう。
「蟇の貌(かお)」が一度「牛の貌」に変えられたが再録するに当たって戻されたという。「蟇」と「牛」だったら「蟇」のほうが醜いだけにチブス患者を貶めると思ったのだろうか?ただインパクトが全然違うものな。「牛」は天然痘ワクチンを作ったからだった。それだと「天然痘」との結びつきが強すぎるということだった。
NHK俳句。夏井いつき「朝顔」、山田佳乃「鳳仙花」6/19 投稿した。
句会選評終わった。だんだん人の句が読めるようになってきたか?
在原業平の和歌
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業平が深草(地名)に住んでいたが京に行くので、そこの女性に贈った歌。「深草」は地名と共に「草の繁茂」を意味するのは、夫の不在を待つ妻の悲しみを詠む中国の「閨怨詩」によく見られる表現だという。
『伊勢物語』「百二十三段」は結局男は京に行かずハッピーエンドとなっている。
しかし、後に藤原俊成が詠む歌は現実的なものだった。
夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里 藤原俊成
『平成歌合 新古今和歌集百番』
今日は「秋歌九番歌合」。
(歌合六十六番)
左手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く
右秋風の吹きやそむとも忘るまじなるる扇のおきし屋処(やど)をば
秋風対決。扇を鳴らすというのは男か?右も宿に扇を置き忘れた男のうただった。左は男ではないな、扇ぐ時のバタバタという音だった。つまり家の中にいる女だった。左は『新古今』でその相聞歌として正比古が詠んだ本歌取りの歌だろう。まあオリジナルの勝ちだな。当たり。さらに付け加えれば秋風を男に例えている。
(歌合六十七番)
左小夜雨にかささぎの橋絶え絶えばあしたあるまじ星の別れは
右この夕べ降りつる雨は彦星のと渡る舟の櫂のしづくか
七夕対決。左は、夜雨が降っていたからかささぎ橋の別れはないだろうと。出会いもないのか?シビアな現実だった。右は彦星は橋が出なくても舟を漕いで天の川を渡るだろうという浪漫を読んでいる。浪漫は『新古今』で左の現実的なのは正比古。正比古もいいんだけどやはり浪漫主義の勝ちだな。
当たり。右は山部赤人。左は意味が違った。もう彦星は橋を渡っていて、帰りの橋がないので帰れないという歌だった。つまり織姫と暮らし続ける。織姫が帰れなくなると言っているな。そっか舟で織姫を迎えに行くんだ。織姫と彦星の話もあやふやになりつつある。
(歌合六十八番)
左置く露もしづこころなく秋風に乱れて咲ける真野の萩原
右いと哀し夜にやあらむ荻の花しとどに濡れてさはに零れり
単純に真野という地名が出てくるから左が『新古今』だと思われ。右は写生的な歌で上手いけど正比古。右の勝ち。当たり。読めてきているぞ。萩の枕詞が真野だという。右は荻の花の赤いのは「紅涙」という女性(美人)の涙を連想するという。
(歌合六十九番)
左薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり秋は夕べとたれかいひけむ
右朝霧の晴れゆくなへに秋の山昨夜(よべ)に紅葉づる色のあらはる
「霧」は秋の季語。春は「霞」。難しい。籬の花と紅葉の山と左は正比古右は『新古今』かな。籬の花がわからん。垣根の花のことのようだ。垣根が濡れているということか?こっちの方が浪漫チックか?左『新古今』で右が正比古。左の勝ち。当たったが意味は違っていた。左はさん「三夕(さんせき)の歌」に倣ったものだという。
(歌合七十番)
左さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ
右夕映えの色は汀になかりけり波音ばかりの秋の夕暮れ
また夕暮れ対決だった。左の方が素直だ。右は波音の方が夕暮れより勝っているという心の乱れか?右の方が上手いと思うのだが、左は詩も夕暮れには敵わないという夕暮れ勝ちの歌だ。これは『新古今』だな。当たったけど、左は寂蓮法師の「三夕(さんせき)の歌」だった。当たって当然か?
(歌合七十一番)
左身にそへる影とこそ見れ秋の月軸にうつらぬ折りしなければ
右待ちわぶる雲間の月の出で来ぬに袖にうつりぬ身にそへる影
秋の月影対決か。「軸にうつらぬ」とは?この「ぬ」否定じゃなく過去完了か。折れない気持ちを歌ったのか?右は男を待つ女の歌だから、右が『新古今』左は正比古だと思うが重なることがないということか?それならば左の勝ちでいいと思う。違った。両方とも相聞歌の女の返歌だった。正比古はこういう歌が上手いんだよな。
見る人の袖をぞしぼる秋の夜は月にいかなる影かそふらむ 藤原範永
藤原定家の歌訓
情(こころ)は新しきを以て先となし 人のいまだ詠ぜざるの心を求めて、これを詠ぜよ。詞(ことば)は旧きを以て用(もち)ゆべし
和歌に師匠なし。唯旧き歌を以て師と為す。心を古風に染め、詞を先達の者に習はば、誰人かこれを詠ぜざらんや
(歌合七十二番)
左唐松の木間(こま)もる秋日にきらきらと細葉(ささは)舞ひ頻(し)く日照雨(そぼへ)降るがに
右入日さす佐保の山辺の柞原(ははそはら)くもらぬ雨と木の葉降りつつ
左は難しい歌だよな。こういう難解歌を作るのが正比古なんだが。右は地名が入って具体的なんで『新古今』だろう。落ち葉の雨が入日と共に美しい光景か。左もそのような歌だが芸が細かすぎるような。当たり。佐保山は歌枕だった。
秋霧は今朝はな立ちそ佐保山の柞のもみじよそこにてもみむ 詠み人しらす
(歌合七十三番)
左さにつらふ紅葉の下照りぬばたまの暗き軒端に仄(ほの)明かりする
右古里は散るもみぢ葉に埋もれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く
紅葉対決か。右の秋風は男の訪問だから待つ女、左もそうかもしれないが「仄明かり」に希望が感じられる。こっちは男の歌か?左正比古、右『新古今』左の方がいいかな。当たったけど右の意味が違った。これは源俊頼の歌で「秋風」は自分の心のことだった。左の難解歌は「さにつらふ」と「ぬばたまの」の二つの枕詞を同時に使った歌だと。テクニシャン正比古の歌だった。
(歌合七十四番)
左ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉はあすは時雨と降りやまがはむ
右落葉松(からまつ)の上枝(ほつえ)ゆ枯葉の舞ひ降りて地にかへるとき幽(かそ)けき声(ね)す
「ゆく秋」対決か?左は素直な歌だが右の落葉松の歌は正比古は一度詠んでいるし「幽けき」が幽玄の『新古今』だと思う。右の勝ち。外れた。正比古は二度目の「落葉松」の表記を変えてきた。騙された。
七勝二敗。かなり出来るようになったが、正比古の技巧から読んでいるから。いつの間にか『新古今』よりも正比古の歌を鑑賞するドリルになっているような。
本歌取り映画短歌
今日のお題。『老ナルキソス』
『百人一首』
「わきて流るる」がいいかね。
溺れゆくナルキッソスの月影にわきて流るる幽しき時間
「時間」を古語にしたいか?「とき」なんだよな。強調のぞを入れるとか別のコトバをさがしてくるんだな。
溺れゆくナルキッソスの月影にわきて流るる幽けし光
かなりよくないか。
NHk短歌もやらねば。川野里子さん「ガラス(硝子)」 山崎聡子さん「怒っていたこと」(テーマ)(6/19)
ガラスはすぐ出来そうだな。