芭蕉が蕉風を見出す紀行文
『芭蕉紀行文集: 付 嵯峨日記 』松尾芭蕉(岩波文庫)
『野ざらし紀行』
芭蕉は改革者なのだ。深川隠棲は、それまで宗匠として今流行りの俳句を詠んで生活してきたが、その反省を四十の歳になって、自身の俳諧を生活のためではなく(資本主義的な生き方)から人生のための俳句(芸術家としての生き方)を目指したのである。それが雅と俗ということなのだが、そこに風狂を見出すという宗教人みたいなことを言っている。この風狂精神こそが芭蕉の本領だったはずなのである。
そこに西行の生き様(道)を見出すのだった。
子規も芭蕉もそうだけど、散文の中に韻文としての俳句がある。その形が好きなのかもしれない。それだと俳句も散文の中で読まれることがあるからへんな解釈やらわかりにくいということはないと思う。その中で俳句(発句)が際立つ。
例えば数々の芭蕉の名句が『おくのほそ道』から生まれたのも散文の中で輝くからだと思う。
「鹿島詣」
蕉風が確立されたのは『のざらし紀行』だという。それは西行の足跡を辿っていく鍛錬の旅であった。旅から帰って、また元の体たらくな生活に戻ったので再び旅に出たのが「鹿島詣」。今回は在原行平の見た月を見に行く旅でもあったのだ(月はどこでも見られるが行平は須磨の浦で見た月を詠んでいる)。
ただこの句は芭蕉の記憶違いで正しくは
であるという。三五夜は十五夜の月。中納言は在原行平で、貞室の月の句は白楽天の「三五夜中新月ノ色 二千里外古人ノ心」によるもの(それと『源氏物語』にも須磨の月があった)。温故知新ということか?
そして芭蕉の『鹿島詣』から乗代雄介『旅する練習』が生まれた。そちらは現代風に中学入学前の少女と叔父さんのメヘンチックな話になっている。鹿島はアントラーズの本拠地であり、少女はサッカー少女でリフティングしながら旅をしようというのである。サッカーボールを月に見立てたのか?
実際には宿泊所の寺に到着した日はあいにくの雨で月は見られなかったのだ。それでも寺に一泊した折に月詠みの句会が開かれた。
「笈の小文」。
「笈の小文」は芭蕉の死後にまとめられた紀行文集で芭蕉の俳文が統一されて書かれているわけではなかった。ただ有名な芭蕉の言葉があった。
この言葉(表記は旧字から直しているが)が蕉風の要になる言葉なのだと思う。ただそれらは雅な世界ですでに現代には無くなってしまったのだが、それを造花するという。この「造花」というのは道教から来た言葉なんだろうけど、ようは造花の花のように作るということが俗だということなのか?「俗花」ということなんだろうな。それは自然の雅なものに対しての俗な行為(大衆性)その二物衝動なのか。
旅人は古の西行とかなんだが、そういう名で呼ばれる俗な行為として真似するときに初しぐれに出会う雅さを感じるといいうことか?
「更科紀行」
「笈の小文」で京都に行った帰りの木曽路を通っての「更科紀行」。姥捨て山に月見に行くのだった。芭蕉は月が好きなのは西行の影響だろうか?姨捨山は月の名所だった。もっとも姨捨というぐらいだから人里離れた寂しい山奥なんだろうか?
「俤(おもかげ)」は「面影」。母の面影とする読みもあるようだが姨捨山に連れてこられた姨たちの面影のほうがいいような気がする。前半しんみり俗なる気持ちで後半は格調高く「月の友」。なくを泣くとしていると母の面影という感じなのか?無くかと思った。
「嵯峨日記」
芭蕉の死後に編集されたようで他の紀行文集が『おくのほそ道』以前に書かれたものだが、その後によるものだった。『おくのほそ道』の付録みたいな位置づけなのか。ただそのときに滞在した書物とか列挙されていて、「白氏文集」やえどまでの漢詩集や『源氏物語』や『土佐日記』という古典から和歌の本まで揃えていたので、芭蕉の俳句は古典を下敷きにしているのが理解出来る。隠遁者だけれども贅沢風流人の芭蕉だった。酒や地元の惣菜などを食べていたようで、鎌倉時代の隠遁者(僧侶)とは違う感じだ。
西行の『山家集』とか読んで句作をしていたようだ。
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