多様な俳句という形
『人それを俳句と呼ぶ―並行俳句から高柳重信へ』今泉 康弘【著】
有季定型の俳句ではなく、戦時中に新興俳句をめぐる評論。新興俳句は戦時中に弾圧され、戦後にもその後遺症のようなスパイ事件があったりした。また著者は絵画や映画から新興俳句を論じ、高柳重信の多行俳句の解釈をしていく。それも俳句の姿だというのだが俳句がイメージによる短詩であることを解説していく。高柳重信への興味が一気に開花していくような読書であった。
ラジオのように―COMME A LA RADIO
ラジオの深夜放送が若者の共同体となったのに対して、カウンターカルチャーとしての俳句は、疑似伝統(花鳥諷詠は明治に虚子がいい出した伝統)が老人のたまり場(疑似共同体)となっている結社について。昨日『角川 俳句』の感想で書いたことと似たような意見なのだが、新興俳句を弾圧したのが放送協会の企画部長だった小野賢一郎(蕪子)という俳人だったという過去があった。
青い街ー松本竣介と街と新興俳句
松本竣介は戦時の画家で統制する以前のモダニズム画家と言えるかもしれない。
その頃の俳人はジャンルを超えて様々な表現から影響を受けていたようである。当時の画壇も伝統絵画の日展(政府のプロパガンダ系)と仁科展があり、新興俳句系の作家は仁科展の作家を見に行き俳句を作っていたようである。
その仁科展に「千人針」という満州事変をモチーフとした絵を出展したのが藤田嗣治だった。「千人針」は当時の街頭の情景であり、松本竣介と「街」とも共通するテーマを持っていたのである。俳壇でも「千人針」という満州事変以後数多くの句が詠まれた。
そうした流れを批評したのが西東三鬼であった。いかにも時局をわきまえたような句を作るのは安易であると意見であったが、三鬼も時局の俳句を作たが趣が違っている。
事変に伝えるメディアの興奮と事変の不透明さを描いた。
同じような句だが、三鬼と全く反対の事変俳句は。
地獄絵の賦ー地獄絵から戦火想望俳句
これは短歌の批評からの続きなのだが、短歌の写生が正岡子規の危機感から生まれたということの続きから。
むしろ和歌は室町過ぎると俳諧の町人文化へと展開していく。そして江戸ではまったく和歌など限られた貴族だけのもので、そのしきたりを変えようとしたのが正岡子規であった。彼が描いた世界は地獄絵図の世界であり、その子規が地獄絵から歌を読む手法を茂吉が模倣するのだが、それを写生と言ったのだ。つまり現実世界にないことでも写生は出来るという写実は精神世界も含んでいたのである。それが斎藤茂吉『赤光』である彼岸の世界観なのだ。それは塚本邦雄が言う茂吉の幻想短歌ということなのだ。
「~ところ」は「~の場面」という意味だが、茂吉はそれは邪魔だと考えていたようなのだが、正岡子規を模倣して短歌を作ることを学んだ。茂吉にとって「写生」は自然を対象とするものでもなく心の実相も写生することを含んでいた。子規もそうした絵から俳句を詠むことを「写生」と言っていたのだが「ホトトギス」の虚子になるとその「写生」の意味が違ってくるだけではなく、そうした茂吉の考えも受け入れなくなってくる。
しかしその不自由さを感じた山口誓子は素材の拡大を、茂吉の影響をうけながら当時の映画のモンタージュの手法からモダニズム俳句を詠むことになる。それが連句によるテーマ性俳句だった。
そして、渡邉白泉が誓子の[「地獄行」影響を受けて戦火想望俳句「支那事変郡作」を作った。
ただこの時期は「地獄」は検閲の対象となる言葉で渡邉白泉の俳句では使われていない。戦後になると検閲はなくなり戦争の中で地獄は様々なシーンで使われた。ただそこにはそれまで罪人の地獄であったものが、
煙突の見える俳句ー林田紀音夫の煙突と日本映画
敗戦直後の貧しさを詠んだ無季俳句。「煙突」という言葉が象徴するのは「貧乏」という生活で他にも紀音夫は「煙突」の俳句は多数ある。
紀音夫の俳句の雰囲気を伝えている映画に『煙突の見える場所』がある。
紀音夫も映画が好きで映画の俳句も作っているが、煙突の俳句は映画より先に作っていた。ただそこに山口誓子のモンタージュの手法があったのだと思われる。映画と俳句の共通点。
あるいは漫画家のつげ義春が描いた「おばけ煙突」。しかし映画の煙突は貧しさだけではなく高度成長期の豊かさも描いているのだ。例えば木下恵介『この天の虹』や小津の映画でも煙突が豊かさのシンボルとして映し出す。その煙突は高度成長期の製鉄所や火力発電の豊かさの象徴であった。
ところが林田紀音夫はその時代でも煙突を貧しさの象徴としての句を詠んでいた。
紀音夫は敗戦後の貧窮生活からスタートした俳人だった。こうした紀音夫の作風に対して「死」「病」「貧」が多いと批判も受けた。その象徴性があまりにも型どおりであるというのだ。当時の社会性俳句に対しても個性化を求める声と共に左翼的記号を嫌う傾向にあった。しかし、伝統俳句の者たちも季語という自然の言葉をマンネリに使う傾向があるではないか。桜の句を見ればそれはマンネリズムといわれずに日本の伝統になるのである。
紀音夫の煙突の貧しさは、無季俳句が季語に成り代わる大きな要素を持っているのだ。
紀音夫の俳句は戦争と大きく結びついているのだ。そこに戦後の高度成長期であっても無季という暗さを引きずっているのだった。
1973年の句だが、この句が林田紀音夫の句から「煙突」を通じて、戦後の貧しさの友だと連想される。この「煙突」の貧しさを本意として形作ったのが紀音夫の句だった。しかし、これをプロレタリア俳句というもので読むものもいる。例えばプロレタリア俳句の「煙突」として
その六十年後三橋敏雄は煙突男(ストライキで工場の煙突によじ登った男)の俳句を作った。
『伊勢物語』の「昔男」の優雅な世界に俗人である煙突男を登場させた。雅さと俗っぽさの二物衝動。
また西東三鬼は1934年に「フロイドに知らせたい」と次の句を詠んだ。
煙突は男根を象徴するものとして、フロイトをパクったエロ俳句だった。ただそこに資本主義の姿が伺える。「煙突」という言葉一つ取っても、「資本主義」から「戦後の貧しさ」「高度成長期」または「工場ストライキ」さらに公害という問題まで象徴的に移り変わる。いまの煙突のイメージは?銭湯の煙突しかないな。
『密告』前後譚―小堺昭三『密告』と西東三鬼名誉回復裁判の経緯
今泉康弘『人それを俳句と呼ぶ―新興俳句から高柳重信へ』「『密告』前後譚―小堺昭三『密告』と西東三鬼名誉回復裁判の経緯」から。 西東三鬼のスパイ事件についてはこの本でも触れられている川名大の本によって知った。しかし、受け止め方は違って川名大は渡邉白泉の俳句に西東三鬼の関与を匂わせたとか。そのことで白泉は俳壇というものが嫌になり復帰しなかったとか書いてたような気がする。その文章が見つからないのだが、たぶん『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』に書かれていたような気がする。
ただあの当時は特攻に逆らえる人はいなかったと思うので病む得ない事情もあったのかもしれない。小堺昭三『密告』は新興俳句に襲いかかった不幸についてのルポルタージュならばそれで良かったのかもしれないが西東三鬼というスターをスパイ扱いしたので本意とは関係ないところで騒ぎが置きてしまったのだろう。本意の取り扱いが上手ではなかった作者のせいなのか?なかなかすっきりしないのは、被害者にあった俳人はその当時(戦後か)にはっきりと証言をして決着を付けておくべきだった。嶋田洋一の証言がもうひとつはっきりしないからすっきりとした事実が見えてこない。
ただこの事件について高柳重信は、この本は売文目的であったならばそれに協力した俳人もスパイかもしれず問題は複雑だ、みたいなことを書いていた。妬みや嫉妬心からそのような事件が起きたとする。それは西東三鬼の家族が苦しんだとか、そういうことは本来別問題であるのだが(なぜなら嶋田洋一の家族も苦しんだのだろうから)、そういう嫉妬心とかからこういうことが生まれたのならば、それは悲しむべき事件なのかもしれない。まあ、俳壇にはそんな噂が多すぎのような気がする。それも小野蕪子のような公然と公安のスパイのような人がいたからなのだ。疑心暗鬼にならざる得ないのかもしれない。
この事件について、続報は書いていきたいと語っている今泉康弘だが新しい事実は探れたのだろうか?
ドノゴオントカ考ー高柳重信の出発
高柳重信の俳句は難解だと思う。それでもこの本を読むことで高柳重信に興味が湧いてくる。それは高柳重信がフランス象徴詩を通過して俳句への興味を繋げているからだろうか?「ドノゴオントカ」というのは、堀口大學が訳しているフランス文学であった。それはちょうどフランスの象徴文学の頃の作品であり、「ドノゴオントカ」という幻の土地を求めてさすらう一人の貴族の話で、それが日本でいう満州のような植民都市という幻を求めてという幻想文学であった。
高柳重信がそうしたフランスの幻想文学=象徴文学を通過して俳句という表現に関わっていくのだった。
月下の伯爵ーリラダンと重信
シン・俳句レッスンで偶然か高柳重信の月俳句を上げたのである。リラダン伯爵がよく分からなかったのだが、『未来のイヴ』の作者だと知った。本だけ買って積読になっていた。ゴシック浪漫だからちょっと読みにくいと思ったのだ。光文社古典新文文庫はAmazonの読み放題で読めるからこの次に読む読書に入れておこう。
エジソンが友人のために女性のアンドロイドを作るのだが出来がいいので恋人と間違えてしまう(恋人は性格が悪い)というストーリー。ディックのSFっぽいところがあるというか、アンドロイドものの王道のようなストーリーだった。
夢見た幻想だけどそれが幸福にならないというのは、現実の方があまりにも悲しすぎるからか。リラダン伯爵が「タダ コノマボ ロシノモニフクサン」という言葉を残している。リラダンはボードレールからポーの話を聞き象徴主義の詩などを書いていた作家であり、象徴主義の幻想性は狂気の話に通じる。月はその象徴なのだろう。
高柳重信が俳句で影響されたのが、富澤赤黄男だという。赤黄男の一字開けから多行俳句へ。
月をゴシック風に描いたのは、富澤赤黄男から叙情性を排除したということだ。