おばさん作家になっても永遠の少女性作家
『カストロの尻』金井美恵子
読書の快楽、映画の快楽、昭和ノスタルジーの快楽か?そのどれかがあれば楽しめると思う。文学作品をふんだんに引用コラージュし、映画は夢の世界とつながり、過去の記憶(昭和ノスタルジー)を呼び覚ます。短編連作のエッセイとも小説ともつかない作品は散文詩と言ってもいいかもしれない。言葉のイメージの洪水はシュルレアスムスの手法だろうか。岡上淑子のフォト・コラージュは、『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』の表紙絵にもなった。姉妹作と言ってもいいだろう。金井美恵子の書く快楽が読む快楽となるのだ。
ただ金井美恵子が侮れないのは『小さな女の子のいっぱいになった膀胱について』で藤枝静男『志賀直哉・天皇・中野重治』での批評で特権意識について語っているのだ。実はこのタイトルは間違いであり、正しくは「志賀直哉、天皇、中野重治」と句読点が中点になっているのである。中点は意味的に対等的な=で横並び的なものを表すが、句読点は区切り分離を表す。志賀直哉が白樺派で小説の神様的に崇められるが、そこに言及する。皇族関係文学者の特権階級という下級者蔑視、それが藤枝静男にもあり藤枝が語っているのは天皇の侍従職作家として園池某(名前の漢字が難しくて出せない)が電車の中で軍医に出会ったのだがその娘がトイレに行きたいというので自分の家の下男が使うトイレを使わせたということに言及している。それが森鴎外であったからで、当時軍医としても作家としても地位が高かったあろう森鴎外に対して、二十歳そこそこの若造が親の権威で下男のトイレを娘に使わすということを書いているのだが、金井美恵子も下男と書いてしまう階級意識が存在するのだが、それとは別に男ども話の中でその娘について話が全く出てこないことに憤慨しているのだった。それが題名にもなっている。
その娘は森茉莉であり男性作家の無知さ故なのか、金井美恵子にとっては志賀直哉よりも森茉莉なのである。ただそういう小市民的特権意識も文学は付きもので、それは個人の差異を表現するものであるからだと思うのだ。文学と哲学の根本的な違いは、この差異を個人的なものとして認めないと最近流行りのポリゴレということになってしまうと思うのだ。
それでも金井美恵子に取って偉いのは文学でありプルーストやユゴーやプシーキンなのである。そして森茉莉は志賀直哉よりも偉いというか読む快楽を与えてくれる女神様だと思うのだが、そういう小市民的快楽の追求は映画という大衆芸能(初期の映画)について語ってられるのだが、例えば溝口健二『残菊物語』について語ったり、例えばサーカスの馬乗りの美女?に三宅邦子を想像したりする面白さ、例えばこれは今だったら網タイツ履いたベッキーが白馬を鞭を振りながらしつけている映像を連想してしまった。多分に女性の乗馬すがたはセクシャルなもの(SM)的なものが存在するのだ。それがあまりにもそういうイメージから程遠い三宅邦子(永遠の母親役)を想像するのが金井美恵子の意地悪さなのだと思う。
金粉ショーとかほとんど消えた昭和エロ・グロ・アングラ劇だが、それについて「007」を絡ませながら語っていく金粉娘との恋愛ドラマだったり(語り手が男とも女とも取れる中性性)、幼い記憶のちょっとマセた姉代わりの幼馴染との滑稽なファンタジーになって語られていたりするのだ。それは金井美恵子のささやかな小市民的な快楽だと思うのだが、その根本には天皇制と家父長制から縛られず逃れていく少女性があるのだった。