『船長の行方』は現代俳句の行方であった
『船長の行方』林桂
すでに出版社自体がない絶版本なのだが、「高柳重信論」が書かれているのと林桂の名を俳句界に留めた「鶏頭論」が掲載されている本だった。
俳句批評の本。現代俳句に大きな足跡を残した高柳重信論、彼が亡くなった後の現代俳句の方法論を意識した作家。そして、自身の俳句との関わり方で方法論を極めていくことで、その俳句を鍛えていくこと。それは船長(高柳重信)が亡き後の俳句(船)の行方なのか。そうした中で正岡子規が晩年に詠んだ「鶏頭」の句に対しての論争を見ることで、船長なき後の「俳句」を決定づけた虚子との分岐点。「鶏頭論」はスリリングな航海のような作品論だった。鶏頭=系統論としても読めるかも。「写生」の系統ということだが。
「高柳重信論」
高柳重信の多行俳句(行分け俳句と言っていたのがこっちの方が一般的のようだ)を研究しようと思ったのである。はっきり言って前衛俳句で憧れるような人は高柳重信ぐらいしかいないだろうと思っているのだ。渡邉白泉もいいけど、途中で引退状態だったし、この前衛俳句が困難な時代に於いてもなお前衛的な俳句をつくり続けた。その一つのスタイルが多行俳句だと思う。それはそう難しく考える必要もなく、短歌での石川啄木がやってみせた多行短歌との関連もあるのかもしれないと思っていたのだ。何よりも韻律の問題として、多行俳句は利点があると思った。
行分けすることで五七五という俳句の韻律を明確にすると共に独自の韻律を示すのである。最初が7音で次が5音、さらに一行空白があって、5音。この俳句は口承であるよりも活字として浮かび上がってくるものがあるのだ。それは空白なのである。その空白の中にあらゆる解釈を飲み込んでいく。例えば、私はこの俳句からメルヴィル『白鯨』を読み解いた。
「高柳重信論と多行形式」
高柳重信自身は多行形式(俳句)とは言ってないとか。高柳重信の中では現代俳句という方法論のひとつで、それを多行俳句と呼ぶことで伝統俳句と区別されるのを嫌ったという。「現代俳句」を使うのは「新興俳句」弾圧があったときに「現代俳句」はタブーとされたが戦後になって誰もが「現代俳句」を使うようになったので、その戒めがあったようだ。つまり方法論的にお前らのどこが「現代俳句」なんだと。それが高柳重信の批評性だという。
高柳重信が目指したのはポーによる詩学の方法論で「構成の哲学」であった。それは俳句の切れを従来の韻律によるものではなく、行分けで示したということだった。
最初の頃の二行形式は切れの存在を二句一章形式の「俳句性」によって明らかにした。字余りだが3つの言葉郡(語句)からなっている。その形式は三行のHIKUの先取りだったのかやがて三行形式に移っていく
三行までは理解しやすいが、さらに四行となると理解が遠くなる。
この形式は七五調を二回の切れで、疑問形を続けることで一句と見立てたものか?二句一章仕立てのような感じなのか?
4行形式は二十六字歌と三十一字歌があったのだが、三十一字歌の方は後に削除されたという。短歌との差異が見られなくなったからか?俳句が短歌の形式から七七を排除したものを、最初の五音を排除した形だという。
高柳重信私論
エピグラフに小林秀雄の批評についての言葉。
批評が愛情とか感情に由来するものだという言葉を引用するのは、ここで描かれるのは高柳重信の死についてだからである。私論というのはプライベートな高柳重信との関係性だろうか?その中に同じ群馬県出身者というのがある。
正確には父の出身が群馬県なので戦争疎開していたようだ。それで群馬の俳句がテーマとして取り上げられる。
桐生の町並みの様子を高台から眺めているのだという。キの字の電柱は象形的な表意文字とともに「キ印」という狂気性も感じさせるという。私は狂気性というよりメルヘン性みたいな宮沢賢治の電柱の詩を連想したりした。
一番引っかかるのは「灯ともし頃」は「とうともしころ」と読むのか?最初ふりがなで「ともしころ」と読むのだと思ったのが違うみたいだ。「灯ともし頃」は「逢魔が時」の意味だという。それはキ=鬼の時間と読む。
「灯ともし頃」は「とうともしころ」と読むのだと思ったのは宮沢賢治が電灯の点滅についての詩があったからなのだ。「とも」はふりがなとして読んでも違和感ないし、それを音でよんでも違和感はない。つまり「とも」は点いたり消えたりする点滅する電灯のような感じを受ける。ファンタジー観があるのはそんなところだろうか?それはまさに高柳重信の命の点滅だったかもしれない。
「加藤郁乎論へ」
「加藤郁乎論へ」から高柳重信亡き後の現代俳句の行方の中心となる人の批評なのだが、誰よりも「船長の行方」という高柳亡き後の現代俳句の姿なのであった。それは批評という読みで船長(作家)の方向性を定めていこうとするものかもしれない。作品は船長の航海通りに進むものだが、その流れを見極めて船長の航海の案内役としての批評かもしれない。
林桂に取って最大の俳人(作家)は高柳重信であろう。その高柳が亡くなって次からの章は高柳なき俳界のナビゲートしていくことにまず選んだのは加藤郁乎だった。加藤郁乎の基本情報としては、前衛短歌から江戸俳諧の世界へ、俳諧の諧謔性というものをもう一度見直そうとする作家なのかもしれない。そうした次世代(すでに過去形なのだが、この当時は高柳重信以後ということ)の作家論から、それは林桂の俳句の方法論へとなっていく。それが「〈季〉について私的ノート」で季語については、それほど重要視はしない。あってもなくてもいいのだ。それよりも俳句で重要なのは韻律と形式だということのようだ。
「鶏頭論」
正岡子規の晩年の傑作とされる鶏頭の句だ。ただこの句会ではこの句に入れるものはほとんど居なかった。なかでも虚子はこの句を写生的ではないとして否定していた。
この句は前年の句会でも鶏頭が詠まれていて、その句会に参加していた虚子への挨拶句であると大岡信は読み、写生句ではなく「人恋しい」句だとしたのだった。
この俳句が支持され始めたのは歌人によってであり、長塚節が斎藤茂吉との対談で「この句がわかる俳人は今は居まい」と言ったという。
その後子規の病から読む境涯俳句として西東三鬼ら俳人の支持を集めるようになった。
そのなかで特筆すべきは坪内稔典の解釈で、これは前庭の風景を赤一色に感動した句であり子規の赤好みを詠んだものとされるのだ。
しかしこの子規の庭には赤だけではなく黄色の鶏頭もあったという。その前景を観察することで、「ありぬべし」という言葉を使ったという。この「ぬべし」は推量ではなく、断定としての子規の強い気持ちを詠んだもので、同類の中に違和が交じる光景を詠んだものとする。それは赤一色ではないのだ。その子規の心の動きが写生句として確かにあったのだが、虚子はその写生句としての子規の句を読み取れなかった。
それは虚子が目の前の鶏頭一つの花だけに注視しているので子規のような全体像では見ることが出来ないかったとするのだ。子規はこの句を自選句として収録するときに、わざわざ「庭前」という詞書を入れているのである。
虚子の写生と子規の写生の違い。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?