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今月のテーマはベンヤミン

『ヴァルター・ベンヤミン: 闇を歩く批評』柿木伸之 (岩波新書)

戦争とファシズムの時代に生きた思想家ヴァルター・ベンヤミン(1892―1940)。蹉跌の生涯のなかで彼が繰り広げた批評は、言語、芸術、歴史を根底から捉え直しながら、時代の闇のただなかに、何者にも支配されない生の余地を切り開こうとした。瓦礫を掻き分け、捨て去られたものを拾い続けた彼の思考を今読み解く。

今月はベンヤミンを読んでみようかと思わせるベンヤミン入門に相応しい新書。

ロシアのウクライナ侵攻でベンヤミンの「新しい天使」を想起した。その日の日記は、ベンヤミンの「新しい天使」について書いたものだった。

ナチスのユダヤ人殲滅作戦によって、ベンヤミンはピレネー山脈を超えて外に出ようとして途中で力尽きてしまった。ベンヤミンの不完全性。それは、哲学から批評へ、さらにエッセイへと降りてくる。言葉の中心に潜む神話の恐ろしさを避けながら、それは焼き尽くす一神教の黙示録の後にも舞い降りてくる「新しい天使」として.......。

ベンヤミンは言葉を伝達の手段として使う(行為の言葉)は、記号の連鎖を生み、おぞましさを増していくと書いた。政治的な言葉とかネットの言葉のおぞましさ(キルケゴールの言葉を借りれば「おしゃべり」と呼ばれている)。他者の言葉を自己(自国)の言葉に自動翻訳するとき。ノイズを消して自己に都合のいいように翻訳する。それが論争や戦争の言葉になっていくという。ノイズの言葉を聞き取る翻訳の言葉こそ翻訳者の課題なのだ。

ここでいう翻訳者は、喩えとして文学者や表現する者のことだ。独りよがりの自己の美学を振りかざし、他者の言葉を抹殺するもの。大切なのは死者の言葉(沈黙の言葉)に耳を傾けることだ。沈黙の言葉に耳を澄ますことで見えてくるもの。

すでに流布している情報ではなく、未だ言葉になっていない事柄がみずからの言葉を見いだすところに、言語そのものが息づく。一つの言葉が沈黙の夜のなかに生じ、何かを新たに語りだすとき、言語が自己自身の力を発揮する。

そこからベンヤミンの批評が生まれた。『ドイツ悲劇の根源』はドイツの神話(ロマン主義)に飲み込まれてしまう一神教の物語の精神性の中で「運命」という贖罪を背負わされる悲劇の中に暴力を見る。

それは国家の物語(神話)としての暴力装置に繋がっていく。国家権力や警察権力の法(掟)として、犠牲を強いる暴力の歴史だった。(『暴力批判論』)

ゲーテ『親和力』の批評として、虚構の中での恋愛(婚外以外の不倫物語)が婚姻関係以外の性を生きるベンヤミンの生き方として、結婚という美化を批評する。ゲーテはナポレオン戦争での「神聖ローマ帝国」の崩壊を描いている。その神話に贖う力として働いているのが、産み落とされた子供たちなのだ。

バロック悲劇の根源として、例えばアリストテレス『詩学』のカタルシスは韻文の響きの中に他者の悲劇を呑み込む英雄譚としてよりも、散文の持つ例えば『失われた時を求めて』の翻訳過程でベンヤミンが見出した無意識的領域の中にあるノイズ、それはシュールレアリズムの運動と繋がっていく。

それはボードレールによって書かれた散文詩。『悪の華』から『パリの憂鬱』に向かう道は、シュールレアリズムを通して『パッサージュ論』に繋がっていく。

シュールレアリズムが表出する『複製技術時代の芸術』は、大衆というブルジョアジーの商品に対する詩的言語として、それはまがい物だとしてもパリのパッサージュ(遊歩道)を飾るノイズの現れなのだ。ブランド品に対するバッタ物のきらびやかさ。例えば他者の言葉を引用するカットバックや記憶の集積がベンヤミンのエッセイとなっていくのである。行方不明になったトランクと共に中途半端な完全性への途上としてのベンヤミンの姿がそこにある。



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