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アーレントに染まってしまうことも全体主義となりうるという禅問答

『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える 』仲正昌樹(NHK出版新書 549)

「安心したい」──その欲望がワナになる
世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか? ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起原』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。
はじめに──今なぜアーレントを読むか
序 章 『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?
第1章 ユダヤ人という「内なる異分子」
第2章 「人種思想」は帝国主義から生まれた
第3章 大衆は「世界観」を欲望する
第4章 「凡庸」な悪の正体
終 章 「人間」であるために

全体主義が同一性を求める中で民族という幻想があることが指摘されている。同じ血であるというような幻想だ。例えば日本は古来島国だから単一民族だという。そこには大陸から流れてきた者も沖縄やアイヌの人々は外されてしまう。亡命者たちのような無国籍は国家に保証されてはいない。人権とよく言われるが、彼等の人権が蔑ろにされるのは、国家という枠組みの中でしか法も適用されないし、彼等には無法地帯に置かれる。それが戦時や内戦や民主化運動の中で国から除外された存在とされるのだ。それらに目を瞑ってしまい無関心にならざる得ない。

ミルグラムの実験は人の思考をコントロール出来るとされている。それは権力側の管理システムによって。日本でも利用されたのが軍事教育や教育勅語による国家の為に犠牲となる精神だった。アーレントはそうした国が規定する国民とギリシアのポリスから発祥した市民を分けて考える。市民による直接民主主義は、代議員制になると人任せになり少数による支配が可能になる。自ら考えることを放棄する国民を国家は育て上げる。その中で正義は国家の定めるものになり、それ以外(他者)は悪とされる。

アーレントはギリシアのポリスの思想に重きを置くがそこは西欧中心となるような気もしてくる。西欧以外の野生の思考は、危険なものとされてくる。そこに議論されることがない神聖視があるとされるからだ。サンデルの「白熱教室」が自由なる討論だとされるが、それさえもサンデルという指導者(中心)にそった議論でなされるのではないか?野生の思考を捨てきれないメンタルな部分があるのかもしれない。文学なんてやっていると特に。

今の日本の政治状況がアーレント『全体主義の起原』になりつつある。例えば麻生副総理の武装難民の問題。普遍的人権か?「国民」Nationの利益か?と問われれば、Nationの利益を取らざる得ない世界になっているのか?同一性を強めていく国家として普遍的人権の限界が世界を覆っている。政治的に無関心な大衆が不安定な社会にあって拠り所を求めていくときに独裁者の響きのいい言葉に従ってしまう。単一的な思考の機械化(オートメーション化)はそこまで来ている。

TVの「100de名著」ではあまり触れられていなかったけどユダヤ人評議会の有力者のナチスに対する忖度という問題。ナチス協力者はユダヤ人内部にいたということを明らかにしたのがアーレント『エルサレムのアイヒマン』の言いたかったことだが、そのことによってユダヤ人(イスラエル)からは非難される。イスラエルがアラブ世界でやっていることはナチスと変わらないのだ(今回のイスラエルのガザに対してもアーレントは異議を唱えるだろう)。それを正義とする単一的な思考が世界にはびこっている。複数性の世界に耐えうる思考は圧力ではないわな。(2017/09/28)『ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)』の感想


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