鈴木涼美『ギフテッド』を読む
『文學界(2022年6月号)』 (創作 鈴木涼美 対談 千葉雅也×マキタスポーツ)
鈴木涼美「ギフテッド」
上野千鶴子X鈴木涼美『限界から始まる(往復書簡)』を読んでいて、鈴木涼美に興味を持った。それまでの知識は元AV嬢の芥川賞候補に選ばれていたが、それほど興味ある作家とは思えず色物的な人かなと思っていたのだ。そんなことから『限界から始まる』の往復書簡を読むことになって、この本が凄いこと、普通こういう企画ものはそれほどプライベートに立ち入らないのだが、ずばずば上野千鶴子が切り込んで鈴木涼美を丸裸ににしていくのだ。ちょっとAVより際どいと思うぐらいに。
そのな中で上野千鶴子に「ギフト」というコトバが出てきたのだ。親から知らずの間に与えられたもの。それは良いことも悪いことも「ギフト」と呼ぶ子の資質みたいなもの。それは例えば上野千鶴子は独身で子供もいないが、なにかしらの「ギフト」を鈴木涼美に伝えようとしている。それがこの往復書簡から受け取れるのである。そのコトバがから出たのが『ギフテッド』だと直感したのだ。
けっこう読みにくいと感じるのは情景描写が多いからか。もっと感情的に描いてもいいのにそれをしない。読者として上野千鶴子を想定しての自己表現の宿題のような文学と感じる。
小説では身体に火傷を負わせる母だが、実際にはAV出演でのSMでの火傷だった(『限界から始まる』で鈴木涼美が告白している)。母親から受けたのは精神的苦痛なのだが、それを身体的(肉体的)傷として描いている。
そんな彼女に取って強い母が病気で弱って介護され看取るまでの物語。親子関係が逆転するのだが、そこに見捨てることが出来ない血縁問題が存在する。それを家族という(『限界から始まる)。
母と娘の関係が逆転するが家族として受容するのは母と同じだったのだ。そのときに望まれなかった娘かもしれないと思っていた時期が語り手にはあった。
ただ母の介護をしていく中で、母の当時と共通の心情を見出していくのだ。生まれる以前の親の姿を知らないと言ったのは、高橋源一郎だけど彼らにも青春時代はあったのだ。それが見知らぬ男が母の恩恵を受けたとやってきたダンサー時代の母の姿だ。その母には夢があった。その夢が朧げながら見えてくるのだが、それは同時に挫折しなければならない夢だった。それは女として自立してやっていくには子育てという負担を一方的に受け持つしかないシステムの世界で、母としてよりも女としての共感覚を得る『ギフテッド』だったのだ。
読書メーターで「ドア」に注目するレビューを読んだのだが、ドアのモチーフはこの小説では重要だと思う。それはドアによって隔てられている部屋(世界)。ヴァージニア・ウルフの自分だけの部屋も連想する。それを得るための仕事だったのだ。
語り手が勤める夜の商売(デリヘルやソープについて言及されている)、そしてホストクラブ、マンションの部屋、病室、そのドアはドラえもんのどこでもドアのように別世界に通じているが、その各部屋は閉鎖的なのだ。そこを通じて語り手が示す現実世界。そして母親がいたダンスホールへにも通じている。そして母が残した最期の詩が。そこは別世界のドアだが彼女が通じるためのドアでもあるのだ。
【シンポジウム】アーサー・ビナード×関口涼子×多和田葉子×李琴峰「移動するアイデンティティ」
言語とアイデンティティの問題。ここに登場する人は二か国語で創作している人で、主に母語ではなく多国語に惹かれている人だが、その中で個人を規定する言語と格闘している人と言えるかもしれない。
そういえばザンブレノ・ケイト『ヒロインズ』を読んで、彼女はTumblrをベンヤミン『パサージュ論』のスクラップブックだと書いていたことから、面白そうだと思ってTumblrに入ったらほとんど英語圏の世界で挫折した。こういうところから世界を拡げなくてはいけないと思うが言語は、やはり才能と若さがいる。まあ、これを読んでいる若い人はnoteなんて狭い世界を読んでないでTumblrにトライしてみることを勧める。そして、その結果を報告してもらいたい。良かったらそっちに移動するから。まだそんな段階ではないのだが、生きられる世界を一つではなく二つ持っていることはこれからは必要になるのだと思う。
話が飛んだ。そういう別言語で生きることはアイデンティティも変わるのだろうと漠然と思うのだ。例えば日本語の一人称は、男女間の区別だけでなく老若の区別もしてしまう。それと地域性の違い。かつてバイトして所に大阪からやってきた先輩がいて、相手のことを指して「自分、自分」と言うのだ。最初よくわからなくて、東京では(今はわからないが)自分というと一人称(それも軍隊的な言葉だったようだ)だったので、「自分」は一人称的に使い先輩は二人称的に使って笑い合っていた。
しばらくは自分でもいいんだけど、普段使いは俺かな?ネットが流行って、女性的であるほうがコメントが付くと知って一時期「私」使いだったこともある。多和田葉子も指摘しているように中性的な大人のニュートラルな使い方だったと今では思うのだが。
そういう「私」が三人称的というのはちょっとわかるような気がする。俺よりも遠い存在であるから。そういえば女子で一時期「ぼく」というのが流行ったことがあった。あれは女子性を消そうとしたのかな?そういうジェンダーや階級で言葉が違ってくるのは日本語は多いのだが。日本語だけではなくフランス語でも女性名詞や男性名詞という区別がある。
そういえば英語も人称をジェンダーで呼称するのは変わりつつあるという話を翻訳家の鴻巣友季子氏がone(性別を明示しない単数形)などをtheyで受ける用法は最近わりと見かけると書いていた。
ほんと一人称で悩むのはよくあるのだ。やっぱ私かな。僕はなんか村上春樹っぽくって嫌なんだ。俺は粗雑で育ちがでるみたいだし。本当はそうなんだが、だから私にしようかと思う。考えてみればけっこう人称を省略していることも多いのかな。俳人だったときに短歌を作るとやたら人称が出てくるのに戸惑ったものだった。
あとアルバート・アイラーの「マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー」というアルバムがあるのだが、そこで英語はよくわからないが、最後に「フリー」と言ってフリジャズを演奏するのがカッコよくて、このスタイル真似したいなと思ったことがあった。そのときに英語詩に目覚めていたらいっぱしの詩人になれたかもしれない。詩はけっこう文法を壊すことも詩だからと押し通すことが出来るような気がしたのだ。単語を並べるだけでも詩になるような。それだとほとんど一方通行でコミュニケーションということはないのだが。わかるやつだけわかればいいという感じで。なんせフリーなんだから。
千木良悠子「小説を語る声は誰のものなのか――橋本治『桃尻娘』論」
これは面白かった。橋本治は最近になって面白いと思えるようになったのだが、『桃尻娘』は盲点だったかな。武田かほりの映画は見たことあったのだが、当時の暗黒舞踏とか出てきて面白いと思ったが、武田かほりが消えていくように興味も失せてしまった。竹田かほりって、甲斐よしひろと結婚したんだ。知らんかった。なんとなく甲斐バンドが好きだったから良かったかなと思っているが。しかも娘がいて歌手だったなんて。でもおじさんはやっぱ「かりそめのスイング」の方が好きかな。
ちょっと関係なかったかもしれないが、いきなり結論めいたことを言うと「一人で生きていかなくちゃいけない」という日本近代文学的な語り手たちに信じ込まされてきた文学を、橋本治は日本の古典を援用しながら、共存という生き方を提示したという。それは宮廷の女官的生き方、清少納言や紫式部ということになるのだが、そこで桃尻娘がどう繋がっていくのか?という考察だと思うのだが、ここは『失われた時を求めて』も読み終わったので、そろそろ『源氏物語』を読み出そうとおもっていたところなので、ちょうどいいチャンスかもしれない。橋本治『失われた近代を求めて』も読みたい。千木良悠子は上野千鶴子の教え子なんだろうか?