発達ゆっくりの12歳の児の保護者をしていて思い直していること
ある方とやり取りさせて頂いていて
自分のnoteでも書いておきたいと思ったこと長文。
自身の育ちの反省、周囲の反省、諸先輩方からのお言葉や書籍などからも、子が7歳くらいまでは10歳以降の二次障害をどう低減できるのか、にエネルギーを割いていた。
二次障害を極力減らしたい。
命に関わること
他害になることを減らしたい。
そう熱望していた。
ある意味で狂気的でさえあったと思う。
12歳の児の保護者となって思い直しているのは、
「二次障害を保護者というだけで避けられると思うこと自体が割と傲慢」くらいの割り切り。
最悪は死んでしまうかもしれないし
自身が毒親と思われる程度で
本人が何かしら前向きに生きていけるならいい
くらいの割り切りでもある。
仮に保護者と子供が限りなく性質が同じで好きなこと嫌なこと得手不得手が同じだとしても、時代、環境が違う。
そして現実問題、大抵は保護者が思うより、
子供と保護者は別個体で、
保護者には理解し得ないことがあり得る。
子供の地雷を保護者が踏み抜くことはあり得るし、
なんなら踏み抜いていてもそれに気付けない程度には
保護者というのは権力がある。
割と、地震を起こさないようにしよう、
みたいな無茶を、
保護者である自分は理性があるはずだからみたいな理屈で
制御できる気になっているような話になっていることに
保護者自身こそが気がつけなかったりし得る。
支援者の方々や諸先輩とぶっちゃけ話をすると
中高生の年齢が見えてくる頃になると、
まあ、20代30代は本人が七転八倒して、
40代くらいにやっと少し自分なりのペースができたらいいね
くらいなもんで、
可能な範囲で犯罪や他害をせず、
罪悪感に押しつぶされ過ぎず、生きられたらいいよね。
程度くらいの上下の振れ幅も
時間スパンの振れ幅もあるもの。
という段階になった。
結局は私にとっては期待値調整なのだ。
6面サイコロ1回振った時の期待値3.5に対して
目の前の自分たちでは1が出ることも認識しておく。
でもあり。
宝くじ1枚あたりの期待値150円を
300円と誤認識していないかでもある。
発達障害系の幼さは年齢の0.8「掛け」とよく聞く。
この「掛け」を捉え間違いやすい自分であることを
都度都度認識し直す必要が私はある。
基本は年齢が上がるほど定型とは下限幅が離れていく。
案外自身としても保護者としても体感で誤解しがちで
成長していくのでうっかり伸びると思いがち。
指数関数をヒトが体感的理解し難く
リボ払いの怖さを数値で意図的に認識しないとわからない
に少し近い。
だから意図的に
期待値は例えば3.5だと出た時
感覚的には2.5と捉え直して予定を立てておく。
でも別に6が出る時も1が出る時もあるし、
保護者ないし本人が優先順位高いものなら
6として予定として入れもする。
その代わりそこで6振るんだから
他は低空飛行できる余白をつくる。
特定個人の中の凹凸
精神面しかり身体的な強さしかり。
生理痛や頭痛、胃腸の強さなどでも
年齢を経るほど個体差の幅と
それを補うライフハックの幅があるようにもなる。
眼鏡や補聴器や音声入力や新薬開発等のように
技術革新で標準的な人との差が
埋まりやすくなるものもあれば、
急に広がったと感じるものもある。
こんなのを
「一個人の保護者が完璧に制御できる」
なんて思える方が多分どうかしている
くらいの割り切りでもある。
ギリギリを見極めよう、より、
上下と時間軸の幅をもって本人を見守る。
本人が保護者以外の何者か
(それがヒトであるかさえわからない)
と何とかしているのを余白を持って
見守れるだけの余白のために
保護者が保護者自身を最優先にする。
が10歳-12歳ぐるぐるして
やっと腑に落ちた。
理屈はわかってても
腑に落ちるのは
我ながら時間がかかる。