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(小説)おおかみ少女・マザー編(一・九)

(一・九)見真の術
 次にエデンが五歳になるのを待って、サンシャインは見真の術をエデンに伝授した。
 見真の術。これはテレパシーの原理に似ている。当然ながら肉眼で見える距離、詰まり視覚には限界がある。それに近くても障害物があれば、見ることは出来ない。そこで視覚ではなく、矢張り心で見るのである。では心で何を見るのか?心で、風を見る。これが基本であり、これがすべてでもある。
 では風の何を見るのか?風が自らの中に映し出す像を見る。風の中に浮かぶ、文字通り、風景を。では風は、どんな風景を映し出しているのか?風は自らが旅して来た場所、そこで見た情景、生き物、建造物などの物体のすべてを、再現してくれる。それは風の記憶であり、かつ常にそれは更新されてゆく。なぜなら風の記憶容量にも、限度があるからである。その為新しい風景がインプットされる度、古い風景から順に消去され、風の記憶は絶えず変化しつつ保たれる。その記憶容量を直線距離に置き換えると、最大およそ十里となり、従ってそれが見真の術の限界となるのである。
 また風が吹かない場所、例えばドアも窓も閉め切り、カーテンで遮られた部屋の中などは見えない。勿論見真の術を使う己が風の吹く場所にいなければ、何も見えないのは言うまでもない。しかし狼山の頂きには絶えず風が吹いているから、その心配は先ずない。風のない日は、この術を使わなければ良いだけのことである。

 では一体どうやって、心で風を見るのか?どうやったら、無色透明なる風が見えるのであろうか。勿論誰にでも簡単に見える訳ではない。先ず全身の力を抜き、目を閉じる。そして無念無想……。何かを想えば心は乱れ、心のスクリーンは曇る。よって一欠片の雑念があってもならない。しかしこれが難しい。修行を積むより他に、道はないのである。
 そして次に風を受け入れる。木の如く草の如くじっと、己を大地に根を張った植物となして、風に吹かれるままに身を任すのである。
「さすれば風は惜しみなく自らの記憶を、おまえの心へと投げ掛けてくれるであろう。それはあたかもそよ風が吹けば、草や木の葉が揺れるようなもの。無駄な力は一切いらぬ。さあエデン、おまえもやってみよ」
 サンシャインの助言に、無言で頷くエデン。
 エデンは狼山の頂上、大きな岩の上にひとり佇み目を閉じる。無念無想で、風に吹かれる。しかし脳裏に何かが浮かぶことを欲する余り、ついつい眉間に力が入った。ぴりぴりぴりっと、エデンの眉間が震えた。
「エデンよ、脳裏を見るのではない。心だ。己の心を見るのだ。心のスクリーンに、映し出されるものだけを見よ」
「しかしサンシャインよ。心のスクリーンとは何だ?それはわたしの心の、何処にあるのだ?」
 焦ったエデンは、サンシャインに問うた。
「それはな、エデンよ。おまえの虚無界の中にある。心のスクリーンとは別名、第三の目と言うのだ」
「虚無界、第三の目……」
「そうだ。虚無界とは即ち、我らが魂の故郷。そこでは心がすべて。なぜなら虚無界に風は存在せず、よってそこでは心の感じるままに、テレパシーによって語り合い、第三の目によって世界を見渡すのである」
 魂の故郷、虚無界。そこでは心の感じるままに語り、心の感じるままに世界を見渡す……。その時エデンの中に、一瞬見覚えのない情景がさっと浮かんで消えた。エデンはまだ知らなかったが、それは神戸の街並みであった。気付けば、エデンの頬を一筋の風が吹いていた。風はエデンの閉じた瞼に涙の雫を残し、そして去った。

 虚無界とは死んだ後、魂が帰る場所。ならばわたしの魂もまた、今迄幾度となく帰った場所。虚無界の記憶はないが、虚無界を想う時、わたしはなぜかいつも、無性に懐かしくてならない。エデンというわたしの一生は夢のように過ぎ、やがていつかまたわたしも死を迎え、虚無界へと帰ってゆくであろう。ならばエデンとは、一体何であるのか?現象界の一生とは、何と儚いものなのであろうか。
 風よ、風……。ならば、いつか空しく死んでゆくエデンというわたしの為に、せめておまえの願いを聴かせておくれ。おまえが辿った、この儚き現象界のかなしく、されどそれ故にいとしき記憶の一片一片を、どうかわたしの心にも、分かち合わせて欲しい。風よ、わたしにもおまえが感じた、この世のかなしみを分けてくれ。おまえの苦しみが少しでも、癒されるように……。
 エデンは祈った、この儚き現象界の為に。現象界に誕生し生きるすべての命の為に、そして風たちの為に。エデンはいつか、誰に教わることもなく、自然両方の掌を合わせ詰まり合掌し、祈っていた。その姿は大地に立つ一本の木の姿であり、野に茂る一本の草の姿であった。
 すると、どうであろう。狼山に吹く風たちが一斉にエデンの許へ押し寄せ、エデンを包み込んだ。その瞬間、エデンの第三の目は開いた。そしてエデンは、風を見た。
 少女エデンが、見真の術を会得した瞬間である。

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