子猫の「苦心惨憺」_博論日記(2023/09/17)
2024年2月1日予定の口頭試問まで、あと134日。
今日はバイトを終えてスターバックスに避難してきた。鬱で過眠がちなので、このまま帰宅したらまず間違いなく眠ってしまう。一旦、立て直さねば。
パソコンを持って家を出れなかったので、大学に行ったとて途方にくれてしまう。そういうわけでのスターバックスである。
外はくもり。残暑というのに執拗に暑かった昨日とうって変わって、過ごしやすい。なのに頭はぼんやりしている。とはいえ、昨日今日とバイトに穴を開けなかった。えらい。
論文に真っ向から取り組み始めて35日で、たまたまやってきたバイトの三連休。これでものの見事に調子を崩してしまった。いつか調子が悪くなるときが来るとはわかっていたけれど、やっぱり残念な気持ちになる。一方で、鬱には鬱の楽さがあるから鬱になっているのだとも思う。過剰に眠り、過剰に食べ、なげやりになっているのはいつもの場所で憩っているということかもしれない。
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今日のトップ画は、昨年だったか、梅田駅付近のディスプレイに貼られていた辞典(国語辞典だったと思う)の広告の一枚だ。写真フォルダを整理していたら出てきた。熟語とその意味とかわいらしい写真で構成されたパネルはいくつもあったはずなのに、わたしは「苦心惨憺」だけを撮ったようだ。何かが気になったのだろう。
いま、現代思想9月号『特集 生活史/エスノグラフィー 多様な〈生〉を記録することの思想』を読んでいるところだ。
まだ途中なのだが、自分の研究姿勢や生きる姿勢に関して考えることが多い。今日は討議の内容に触れながら、それらのことを書いてみようと思う。
文章ばかりは寂しいので、昨日のバイト終わりにインターネットカフェまで歩いた時の写真を間に挟んでみる(ちなみに、昨日はインターネットカフェで過ごして一旦覚醒したものの、帰宅後布団に逆戻りだった)。
本書の冒頭に掲載された石岡丈昇+打越正行+岸政彦の討議の後半に、「他者理解の保守性?-生活史/エスノグラフィーの倫理と政治」とリードの付けられたセクションがあった。その始まりは岸氏の次のような言葉から始まっている。
ここを読んで、私には思い当たるところが多分にあった。
私には「他の生き物と人間とがなんとかかんとかうまくやっていくための助けになりたい」という大きな方向性がある。でもその前に、「私は人間である。それはもうどうしようもなく」という痛感があり、例えば人間と動物との共存をめぐって対立が起こっていたとしたら、人間の立場を理解すること、まずはそれからだと考えてきた。
本音の部分では人間より他の生き物の方が好きだが(そこが、討議の三先生と決定的に違うのかもしれない)、でも他者を理解したいと、そう思ってフィールドワークを続けてきた。それに加えて、私にはもうひとつ小さな頃から育ててきてしまい、いまだどこか囚われている思考の方向性がある。「真のいい子」になりたかった私にとって、他者理解の姿勢は小さな頃から欠いてはいけないものだった。
人々がなんとかかんとか“生きている”ことを尊いと思う。自分が生きづらさを感じるからなおさらに。すると、生活史を書くまではいかなくても生活の地平から人々の語りを記録していると現状肯定的な感じになってしまう。
例えば、問題がないと言っている人たち(当事者)を前にして、どこまで行っても当事者にはなれないよそ者の自分としては問題があるとは言えない。私がフィールドに入る際にフォーカスしていた問題は人々の暮らしの一部にすぎないことを知り、人々がそれぞれの生き方に照らしてその「問題」を問題にしたり、ちょっと気にしていたり、まったく意識していなかったりする様を記録する。
いろんな考え方があるよなあ。
ここで止まってしまう自分がいる。社会を変えようという気持ちは鈍り、なんとなく保守的になる。自分にできることは何もないのだと思ってしまう。
わたしの限界はここなのだろう。
私が諦めてしまっている部分に関して、討議では以下のような話が語られた。
ここで三人が悩み、抵抗し、自省しながら苦心惨憺してこられたところを、私はおそらく手放しに諦めてしまっているのではないか。そう感じた。
私が苦心惨憺していないというわけではない。事実、非常に思い悩み苦しい。けれど、その苦心惨憺は三人とまったく別のところにあって、まるで世の中を知らない子猫の苦心惨憺なのではないか。
私は世の中に対してあまり憤っていないのだと思う。今まであまりにも(私にとって)良い人々に恵まれてきた。精神的に取り乱した時ではあったが、修士時代の指導教員に「人生を舐めているのか」というようなことを問われ、泣きながら「悪い人たちに出会ってこなかったから、悪い人たちがいること前提で人と接することができないし、世の中を批判的に見れない」というようなことを口走ってしまい、絶句されたことがある。心底呆れられたと思う。
その一方で、自分が恵まれて育ってきた自覚はあるので、足りない思慮をなんとか補わねば、と常に欠如感に苛まれている。
戦争反対、格差社会反対などなど、もちろん考えてはいる。選挙にも行くし、それなりに悩んで投票する。自分のひとつの買い物の背後にあるものを想像し、その選択が社会に対する意志の表明だとも考えたりする。
なのにどこか、私は社会を変えたい、と明確に思っていないきらいがある(こんな世の中おかしいと思うことはたくさんあるが、先に述べた理由でどこか保守的)。変えるべき矛先ははいつも自分に向かっている。自分はどこまでいっても不完全で、責め甲斐がある。私はいつも自分個人の枠の中で苦心惨憺している。自分事から広がらない。世の中に開けていかないのだ。フィールドワーカーなのに。とんだ子猫だ。
私の論文を書くモチベーションが、
・行ったからには書かねばならない(どれだけの人にお世話になり、どれだけのお金を投資してもらったのか)
というところ以上に発展しないのは、私自身が現状追認しかできていなくて、無力感を感じているからではないか。
私はこの点に関して、伝えるというフェーズにて苦心惨憺する余地が、きっとある。目の前にあるフィールドで手に入れたデータを諦めの目で見ることをやめる。もっと自分に能力があったら、努力ができたら違ったデータを手にしたのではないか、というところで苦しむのをやめる。この手元にあるデータ、もとい、私が時間を使い、いろんなタイミングでいろんな人々と縁を結ぶことで得た、これ以上でもこれ以下でもないものから語らしめることに苦しもう。そう思った。
以下の岸氏と打越氏の言葉はエールのように聞こえた。
まず、何もかにも自分のいたらなさに結びつけない。そもそも、私が考えている「いたる」のレベルには、死ぬまでいち人間という存在はいたらないものなのだろう。
もう少し歴史や構造に目を向けてみよう。人々の事情を知ると現状追認するしかない、と諦めない。丁寧に事情を書きながら、歴史や構造に結びつけながら、それが直接的なスローガンにならなくとも、伝わること、世の中を変える火種になるものがあると信じてみよう。
このステップは、一般化が下手だと言われる私にとって、具体的な打開策にもなるかもしれない。
まずは、布団に逆戻りしない。そこからだ。
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<To Do>
・投稿論文:修正をとにかく早く出す。
・分担書籍原稿:第2稿執筆中、来週までに提出(30日締め切り)
・システマティック・レビュー:一次チェック作業終了 / 二次チェック作業用フォーマット作成
・博論本文:執筆(現状:43,175字)
・研究会発表原稿作成:アウトラインに情報を載せていく(本番10月14日)。