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ねぇ、さくちゃん (短編小説)

「ねぇ、さくちゃん」
斜め向かいの席に座り、窓の外を眺めているさくちゃんに話しかける。
「コーヒーの表面、見て」
私の言葉に、頬杖をついていたさくちゃんがこちらを向き、身を乗り出してきた。
「私のじゃなくて、自分のを見てくれればいいの」
「見てって言ったの、あんたでしょ」
さくちゃんは大きな体を引っ込めて、自分のコーヒーを真上から見た。
「一体何?何を見たらいいの?」
「わからない?埃。埃が浮いてる」
私のことばに、心底くだらないとでも言いたげに、わざとらしくため息をつくさくちゃんを見て、私はくすくすと笑った。
「ばかばかしい。何が楽しいの。コーヒーの表面に浮いた埃なんて見て」
「ん。だってさあ」
私は小声になる。
「ここって、結構いい値段のする喫茶店じゃない?この一杯690円もするコーヒーにも埃が浮いてるなんてさ。笑えるよ」
私はまたくすくすと笑う。
「あんたはほーんと」
さくちゃんがコーヒーを一口飲んだ。きっと埃も飲み込んだんだ。
「お気楽な女ね」
さくちゃんはまた窓の外に顔を向けてしまった。
今日のさくちゃんは無口だ。いかにも不幸を背負ってきたように背中を丸めて店に入ってきた時には笑ってしまった。
「私が元気ないって言いたいんでしょ。だからそんな、どうでもいい話するのね」
さくちゃんは外の景色を見たままそう言った。
「いつでも幸せそうな人なんて信用ならないよ。さくちゃんぐらいがちょうどいい」
私が言うと、さくちゃんはフッと鼻息を出した。
「酸いも甘いも知ったような言い方するじゃない。ガキンチョのくせに」
さくちゃんはまた大きな一口でコーヒーを飲んだ。
「幸せだーって言ってる人を見ると、大丈夫?そんなに軽々しく幸せだ、なんて言っちゃってと思うもん」
私は表面に浮く埃を気にしながら、恐る恐るコーヒーを一口飲んだ。
「幸せって、そんなに手に入れやすいものだっけ……」
さくちゃんがこちらを見てくれないので、急に寂しくなった私に気づいたか、さくちゃんは声を張って言った。
「あーーうるさいうるさい。幸せに定義なんてあるもんですか。幸せだって感じたなら、それが幸せなのよ」
さくちゃんは一度ぐぐっと伸びをした。
「ひとつの恋が終わったくらいで、私が不幸にでもなったと思った?」
ハハハ!とわざとらしく笑ったさくちゃんは、この喫茶店には似つかわしくない飲み方でコーヒーを飲み干した。
「私は恋を終わらせたの。恋は一人で終わらせることなんてできないのよ。理由はどうであれ、ひとつの恋は携わった二人が終わらせるものなの」
「そういうもん?」
「そうよ。だから私は恋を手放しただけ。私の大事な時間をあの人に使うことをやめた。ただそれだけ。幸せを諦めていないし、今だって幸せだし」
「今?この瞬間?」
「そう。あんたの間抜けなつらあ見ながら埃の浮いた高いコーヒーを三口で飲み干した。こんなに幸せなことが他にあるぅ?」
さくちゃんはぬっと私に顔を近づけ、より目をした。
「やめてよ、おっかない。わかったわかった。さくちゃんが幸せならそれでいい。あーあ、無駄に映画のセリフなんて引用してみて損した」
「ばかね。借り物の言葉なんて、響きはしないわよ。特に、私みたいに経験豊富なオンナにはね」
オンナねぇ、と思いながらその飛び出た喉仏とたくましい体を眺める。
「さ、そろそろ行くわよ」
さくちゃんが言った。
「ええ?ちょっと待ってよ。まだこのコーヒー、一口しか飲んでない!」
さくちゃんが人差し指をくいくいさせて、私の顔をコーヒーに近づけさせる。
「コーヒーの表面、見て」
私は自分のコーヒーの表面を見た。
「あんたが飲みたかった部分はもう、あんたの胃の中よ」
「げぇぇぇ」
私はコーヒーに浮いた埃の部分を綺麗に飲み込んだらしい。
「二丁目にいくわよー!」
「ちょっと!しぃっ!!」
喫茶店に響くさくちゃんの声に恥ずかしくなり、私は急いで荷物を抱えた。
こういう時、さっさと店を出てしまうあのオンナ。
「また私のおごりかよ……」
イイオンナぶるのもいい加減にして欲しい。
先に外に出たさくちゃんが、早く早くと手を振っている。



[完]


#短編小説
#さくちゃんシリーズ

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